刺青《いれずみ》された男 他九篇 横溝正史 [#改ページ] [#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]  目 次   神楽《かぐら》太夫《だゆう》   靨《えくぼ》   刺青《いれずみ》された男   明治の殺人   蝋《ろう》の首   かめれおん   探偵小説   花 粉   アトリエの殺人   女写真師 [#改ページ] [#見出し]  神楽《かぐら》太夫《だゆう》     一  私はいいかげんに茸《きのこ》探しをあきらめると、山の平地へ出てごろりとそこに寝ころんだ。おじさんには少し義理が悪いような気がしたが、そもそも自分のような初歩の者に、盛りの頃ならばともかく、こう季節遅れになっての茸狩りは無理であると勝手にそう理屈をつけると、急に気が変になった。  静かなものである。聞こえるものといっては小鳥の声だけ。入りまじった赤松の枝の間から青い空が見える。暖かそうな雲が浮いている。その雲のゆるい動きを見ていると、私はなんだか体が宙に浮いていくような感じをおぼえた。俳句でも作ってみようか。——そう考えてしばらく頭をひねってみたが、一句もまとまらないうちに私は急に煙草《たばこ》がのみたくなった。起き直って腰を探って煙草入れを取り出したのはよいが、そこでふいと私はマッチを持ってこなかったことに気がついた。このごろはマッチも煙草も不自由なので、今日も煙草は持参したものの、マッチのほうはおじさんを当てにして、わざと持ってこなかったのである。  煙草というものは思い出すとたまらなくなるものである。私は腰を浮かして足もとに落ちこんでいる谷を見回したが、おじさんの姿はどこにも見えない。さっきまでがさがさ草を分ける音がしていたのにそれも聞こえない。赤松に覆われた山も谷もしいんとして、人の気配はさらになかった。私は急に心細くなった。  その朝私はだしぬけに、茸狩りに御案内しましょうとおじさんに誘われたのである。おじさんというのは近くの町で郵便局の局長をしている人である。私とは親戚《しんせき》続きになっているそうだが、最近までは会ったことはもちろん、名前も知らなかったのを、岡山へ疎開してきてからは、なにかと世話になっている。元来が世話好きな人らしく、野菜の苗を持ってきてくれたり、釣瓶《つるべ》を貸してくれたりする。  私は茸狩りに興味はなかったが、山を歩くのは好きだから、誘われると一も二もなく腰に籠《かご》をぶら提げて飛び出した。みちみちおじさんはこんなことをいう。縄《なわ》を張って入山料をとるような山はきらいだ、金をおしむのではないが、そういう山では採れるにきまっているからおもしろくない。なんの猟でもそうだが、むやみにとれてはつまらない。探して探して探しまわったあげく、重なり合った落ち葉の下から、ひっそり頭をもたげた茸を見つけた時のうれしさ。——  そんな話をしながらおじさんはいかにも心弾むようにぐんぐん足を運ぶのである。私はそれに歩調を合わせるのと、話に相槌《あいづち》を打つのが精いっぱいで、途中の景色もろくに眼に入らなかった。今考えてみてもどこをどう歩いたか覚えていない。なんでも山を二つ三つ越えてきたことは覚えているが、……私は急に不安になって、五、六歩赤松の間を駆け登ると、半町ほど向こうに白い煙が一筋立っているのが見えた。なんだ、あんなところにいたのかと、私はいくらか安心して、山の傾斜を横|這《ば》いにやっとその場へたどりついたが、そこで思わずぎょっと立ちすくんでしまったのである。  まず第一に私を驚かしたのはそのあたりの地形である。そこは人工的に切り拓《ひら》いた五十坪ほどの台地になっているが、一方は斧《おの》で削り落としたような険しい崖《がけ》となって、いま私がたどってきた谷の行く手をふさいでおり、一方は何百トンとありそうな巨石が累々と積み重なって、眼のとどくかぎり空高く続いている。その石の一つ一つは優に自動車ぐらいの大きさはあり、それが巧みに平衡を保って累々と重なり合い、盛り合っているところは眼を驚かすに足る奇観であった。ところでこの巨石の崖の麓《ふもと》だが、そこは八畳敷きくらいの洞《ほら》になって、洞の奥の岩をえぐった龕《がん》には小さい仏像が安置してあった。しかもその洞の左の奥にも、さらに広い空隙《くうげき》があって、そこには板の床が張ってある。なんのことはない。草双紙のさし絵や芝居の舞台に出てくる山賊の岩窟《がんくつ》そっくりだった。  ところでもう一つ私が驚いたのは、そこで焚《た》き火をしているのがおじさんでなく、見知らぬ男だったことである。しかもその男の様子というのがはなはだ薄気味が悪い。木綿の袷《あわせ》を尻端折《しりはしよ》りにして、股引《ももひ》きに脚絆《きやはん》を巻き地下|足袋《たび》をはいている。古い鳥打帽をかぶってこうもり傘《がさ》の柄にふろしき包みを結びつけている。そういう風体からして明治時代の探偵《たんてい》小説のさし絵みたいに見えるのに、もじゃもじゃと山賊のように髯《ひげ》を生やして、しかも妙に眼つきが鋭いときている。場所が場所だけに私は身内のすくむような思いがした。  男はジロジロ焚き火の向こうから私を見ている。まさか私も逃げ出すわけにはいかないので、逆に思い切って焚き火のほうへ近づいていった。 「済みません、火を貸してください」  男は無言のまま焚き火の中から粗朶《そだ》を一本|選《よ》り出してのぞけてくれた。そして私の腰に提げている籠に眼をつけながら茸《きのこ》引きかと訊《き》いた。この辺では茸を引くというのである。私がうなずくと少しは引けたかと訊く。私は答える代わりにお義理に引いた二、三本の雑茸を見せようと、籠を出してみせると、その雑茸もさっき滑った時に落としたとみえて、籠の中は空っぽだった。私が苦笑すると男も皓《しろ》い歯を出して笑った。  その笑顔に妙に人なつこいところがあったので、私もその場に腰を落としておじさんのことを聞いてみた。男は黙って首を横に振る。そこでこんどはそこの仏様のことを尋ねると、これは薬師様であると教えてくれた。昔は相当はやったもので、眼の不自由な者がよくおこもりをした。左手にある岩窟がお籠堂《こもりどう》であるが、支那《しな》事変以来しだいにすたれて、とうとうこんなざまになってしまった。——  そんな話をしながら男はしきりに焚き火の中をかき回している。彼はその焚き火の中に薩摩芋《さつまいも》を放りこんでいるのである。芋の焼けるよい匂《にお》いが私の空腹を刺激して、腹がぐうぐう鳴るのには私も弱った。  男はそれに気がついているのかいないのか、焚き火をつつきながら、おりおりじろッじろッと上眼使いに私を見る。その眼つきがまた私を不安にしたのと、これから芋を食おうとしているのに、邪魔をしても悪かろうと思ったので、私が腰をあげかけると、突然彼がこんなことをいって私を驚かした。 「あなたはもしや桜に疎開して来ている探偵小説家のY——さんじゃありませんか」  私は驚いて彼の顔を見直した。すると彼は弁解するようにこんなことをいった。私は二、三日この向こうの久代村の親戚《しんせき》に泊まっていた。そこへ遊びに来る者にあなたの親戚の人がある。私はその人からあなたの噂《うわさ》を聞いた。さっきからお話ししていると、この土地の者ではなし、言葉は東京である。それに右手の中指に筆だこがある。てっきり物を書く人だと思ったから訊《き》いてみた。と、そういいながら男は焚き火の中から大きな薩摩芋を取り出すと、 「どうです、一つ食べませんか」  いまの言葉でいくらか警戒を解いた私は、勧められるままに芋をもらったが、しかしこの男何者だろうと肚《はら》の中で考える。こちらの名前まで当てながら自らは名乗ろうともしない。服装や言葉から私を疎開者とにらむのはなんでもないが、筆だこに眼をつけるとは恐れ入った。  しばらく私たちは無言のまま芋を食っていたが、やがてまた彼は妙なことを尋ねた。 「あなたはこっちへ来てから神楽《かぐら》を見ましたか」  妙なことを訊《き》くと思ったが、ちょうど一週間ほど前がお祭りで、しかも今年は私のいる桜部落が神楽の当番に当たっていたので、私も小屋掛けから神楽|太夫《だゆう》の世話万端、いくらか手伝いもしたのである。私は七人の神楽太夫に対する一日のお礼が四百円であることも、その人たちに供応する一日の食料が一人あたり米一升ということも知っていた。金はともかく一日一升の振る舞いはうらやましいと、そんな話をすると、相手はしかし米より金に感心したらしく、 「四百円? へえ? えらいもんですな」  と、しきりに小首をかしげていたが、また、マツノオさんはどうであった。王子割りはやったかと重ねて訊いた。  マツノオとはどんな字を書くか知らないが、これが神楽中での人気者らしく、おどけた面をかぶって登場すると、見物はわっと囃《はや》し立てた。マツノオさんとは酒造りの神だそうである。スサノオノ尊《みこと》に退治されるヤマタノ大蛇《おろち》に飲ませる酒を造るのがマツノオさんで、酒造りにかかる前におどけた身振りや唄《うた》や漫談で見物を笑わせることになっているらしい。私の見たマツノオさんはエノケンのような塩辛《しおから》声をふり絞り、石田一松のような時事小唄と金語楼のような漫談で見物を喜ばせた。  王子割りとはオオクニヌシノ命《みこと》が四人の王子に国を分配するところで、太郎次郎三郎四郎の四人の王子は、相撲《すもう》の四本柱みたいに舞台の四|隅《すみ》に陣取っていて、口角|泡《あわ》を飛ばして自己の権利を主張して譲らない。ただこれだけのことなのだが、これが見物に受けるのは、王子たちの応酬に、本筋の台詞《せりふ》以外の楽屋落ちやスッパ抜きが飛び出して、しまいには神楽かほんとうの喧嘩《けんか》かわからなくなるからである。 「あの王子割りでは時々ほんとうの喧嘩になることがあるんです。ずっと前のことですが、やっぱりこの王子割りから喧嘩になって、とうとう血なまぐさい人殺しまで起こりました。殺されたのは四郎王子で、しかも死骸《しがい》が見つかったのは、このお薬師様の前、ほら、その辺でしたよ」  彼はそういって燃えさしの粗朶《そだ》で私の右手を指さした。 「どうです。その話をしましょうか。ああ、芋が焼けたようです。もう一つおあがりなさい」  皮についている火の粉をはたき落として、彼はまた大きな芋を私にくれた。私はその芋を食いながら、彼の話に耳を傾けたのである。  前の晩岡田の神楽をめでたく舞い納めた神楽太夫の一行七名は、その朝早く村の宿をたって麦草の祭りに向かった。  岡田から麦草まで山越しで六里。麦草の神楽をその夜の十二時までに舞い納めると、憩う間もなくすぐその足で、さらに二里向こうの宇戸谷へ駆けつけて、そこでまた夜を徹しての神楽を舞わなければならないのである。  毎年秋のその季節になると、神楽太夫は眼の回る忙しさだった。毎日どこかの村で祭りがあった。どうかすると同じ日に二ヵ村の祭りがかち合うことも珍しくなく、あちこちからの引っ張りだこで、二里三里離れた村を掛け持ちすることも珍しくなかった。  神楽そのものが相当激しい労働であるうえに、この掛け持ちがひどいから、体の弱いものには勤まらない仕事である。しかし神楽太夫といっても、年中神楽をもって生業としているわけではなく、ふだんは郷里の村でほかの百姓と同じように農耕に従事しているのである。それが祭りの秋になると揉烏帽子《もみえぼし》に紋付きの羽織|袴《はかま》と容《かたち》を改め、神楽太夫に早変わりするのだから、健康と健脚とは一般の百姓と少しも変わりはない。  さて岡田を早立ちした神楽太夫の一行七名は、がやがや話しながら山越しの道を麦草へと向った。麦草の神楽は三時からだから、そう急ぐ必要もなく、七人の神楽太夫は揉烏帽子に羽織袴という、だれが見てもそれとわかる扮装で、しごくのんびりと山路をたどっていた。  ところが途中の新本を過ぎて間もなくのことである。彼らはふと一行の中に二人欠けていることに気づいた。はじめのうちは道草食っているのだろうと、別に気にも止めなかったが、いつまでたってもその二人が追いついてこないので、五人の太夫もしだいに不安になってきた。  彼らの不安を感じたには理由があって、遅れた二人というのが王子割りの三郎王子と四郎王子だったからである。この二人は従兄弟《いとこ》同士で、七人の中でかけ離れて年が若く、どちらも二十三、四の屈強の若者であった。ところが今年の巡業がはじまってから、どういうわけか二人の折り合いがおもしろくなかった。何かにつけて角目立《つのめだ》った。それについてほかの太夫は初めこんなふうに考えていたのである。  いったいこの辺の神楽は至って簡単なもので、素人でも少しけいこをすればできそうだが、中には相当修業を要する役もある。まずオオクニヌシノ命にスサノオノ尊だが、これは貫禄《かんろく》のいる役なので、どの組でも座頭《ざがしら》ともいうべき年長の太夫が勤めることになっている。  それからマツノオさんだが、これはよくしゃべり、よく唄い、かつよく踊らねばならない。いちばん芸らしい芸を要する役で神楽の組の良否はマツノオさんできまるといわれる。それだけにこのマツノオさんが組の実権を握っている場合が多いのである。  それについでヤマタノ大蛇とタケミナカタノ神の二役だが、これは激しい動きを長時間にわたって見せなければならない。逆立ちをしたりとんぼ返りを続けさまに打ったり、長い髪を振ったり、一種の曲芸であるから、体力のある若者で、しかも体の軽い者でないと勤まらない。王子割りで三郎と四郎の王子を勤める二人の太夫は、この二役を一つずつ受け持っているが、彼らは日ごろからとくに体の軽いことを自慢にしている者だから、自然はげしい競争意識があって、そういうところからいがみ合うのであろうと、初めのうち五人の太夫は、そう簡単に考えていた。  ところが昨夜の王子割りで、彼らは初めて二人のいがみ合いに、もっと深い原因があることを知った。昨夜の王子割りでも例によって楽屋落ちやスッパ抜きが飛び出したが、三郎と四郎の二王子はしだいに熱してきて、しまいには夜這《よば》いだの間男《まおとこ》だのという露骨な言葉まで飛び出す始末で、はては本物のつかみ合いに終わったのである。  何も知らぬ見物は彼らが露骨になればなるほど喜んだが、五人の太夫はそれで初めてはたと思い当たるところがあった。夜這いだの間男だのという言葉の対象になる女を彼らは知っていた。それは廃疾者の亭主《ていしゆ》をもった若い村の女房で、二人の太夫が日ごろからその女房に親切であることは、前から村の噂《うわさ》にのぼっていた。  それが昨夜の王子割りで持ち出されたのである。二人はその女を中心に激しいさや当てを演じているらしく、しかもどうやら四郎王子が、そのおかみさんとできあっているらしいことが、昨夜のいがみ合いで初めてわかった。  五人の太夫は眉《まゆ》をひそめた。もっとも田舎《いなか》ではこういう問題はかなりルーズに扱われるが、困ることはこういう恋の遺恨があるとすれば、これから先折り合う見込みはない。いつそれが爆発して、神楽にさしつかえるようなことがないとも限らぬ。——一同はそれを心配したのである。  こういう懸念《けねん》のあるやさきだから、五人の太夫もしだいに不安が昂《こう》じてきた。そこでマツノオさんと太郎王子が引き返して、二人の行方を探すことになった。ほかの三人はぶらぶら先へ行くことになった。こんなことから麦草へは午前に着くはずになっていたのが、正午にはまだ半道も来ていなかった。仕方がないので三人が、路傍で弁当を使うことにして、岡田で詰めてくれた割籠を開いているところへ、マツノオさんと太郎王子が、汗をふきふき引き返してきた。二人とも太夫たちを発見することができなかったのである。  五人の者はいよいよ当惑したが、これ以上待つわけにはいかなかった。行く先はわかっているのだから、いずれ駆けつけて来るだろうと、彼らは先を急ぐことにした。  しかしとうとうその晩二人の若者は麦草へ姿を見せなかった。彼らの役はマツノオさんが代わってどうやらお茶を濁した。宇戸谷でもやはりマツノオさんが大奮闘した。こうして宇戸谷の神楽を夜明けごろまでに無事に舞い納めた五人の太夫は、村の宿へ案内されて、午《ひる》過ぎまで前後不覚に眠ったが二時ごろになって村のお巡りさんにたたき起こされた。そして四郎王子の殺されたことを初めて聞かされたのである。     二 「四郎王子の死体が転がっていたのは、いまあなたの座っていらっしゃるすぐ後ろのあたりで、これを見つけたのは茸《きのこ》引きに来た新本の百姓の婆《ばあ》さんでした」  もっともそれが四郎王子とわかったのは、宇戸谷から神楽太夫の一行が駆けつけてきてからのことで、それまでは揉烏帽子《もみえぼし》と羽織|袴《はかま》から、神楽太夫のひとりとはわかっても、果たしてその中のだれとはわからなかった。  死体が発見された前々夜、神楽のあった岡田からも、祭りの世話役が二、三人駆けつけてきたが、彼らにもその死体がだれであるかはっきりしなかった。からだつきや年格好から、三郎王子か四郎王子のどちらかだろうといったが、さて、そのうちのどちらか、はっきり言うことはできなかった。  それというのがその死体には顔がなかったのである!  いや、かつて顔のあった部分は残っているが、言語に絶した無残さで、眼も鼻も口も耳もひんむかれて、そこに残っているのは、ぶち割られた西瓜《すいか》の中身みたいな、赤いどろどろした肉の塊にすぎなかった。それはもう相好《そうごう》の識別のつけようもない、ぞっとするほど恐ろしい、血だらけののっぺらぼうであった。  それにしてもどうしてこんな無残なことになったのか、その理由はすぐわかった。死体は薬師まえの台地で発見されたが、実際に犯行のあったのはそこではなく、そこから十数丈上の崖《がけ》の草叢《くさむら》の中であった。そこには明らかに格闘したらしい跡があり、また、血にまみれた石ころも草の中から探し出された。この石ころの角は、死体の後頭部にある。おそらくそれが致命傷であろうと思われる傷口ともぴったり一致した。そこでこういうことになる。  その草叢の格闘で、一人が石ころをもって相手の頭をたたき割った。そして死体を崖から投げ落としたのである。投げ落とされた死体はあの累々たる巨石の上を、跳ねっ返り転々し、滑りつつ台地まで落ちてくるうちに、完全に顔の皮をひんむかれ柘榴《ざくろ》のように肉がはじけてしまったのである。その証拠は巨石のいたるところに残っていたし、死体のすさまじい骨折や破壊もそれを示していた。  さて、話が少し先走ったが、これをもう一度もとへもどすと、死体が発見されたのは朝の八時ごろのことであった。そこでこのことがすぐに新本の駐在所へ報告されたが、新本では前々夜神楽太夫を奉納した縁故があるので、すぐこの由を岡田へ知らせた。そして岡田の世話役から神楽の行く先を聞いて、すぐに宇戸谷へ電話で手配した。そこで宇戸谷のお巡りさんがお昼の二時ごろ神楽太夫の寝込みを押さえた。当時の田舎としてはこの手配りは賞賛に価する敏速さであった。  神楽太夫の一行はお巡りさんに付き添われ、すぐ宇戸谷をたったが、彼らが新本の駐在所へ着いたのは夜の七時ごろのことであった。その時分には総社の警察から係官も駆けつけていて、綿密な現場の検屍《けんし》も終わり、死体は新本の駐在所へ運びこまれていた。  そこで五人の神楽太夫がおそるおそる死体を調べたが、前いったような理由から、死体そのものからは三郎四郎のいずれとも、判断を下すことはむずかしかった。しかし着衣や揉烏帽子からそれが四郎王子であることに意見が一致したのである。と、同時に三郎四郎両王子の軋轢《あつれき》、ならびに昨日麦草への途中、二人がはぐれてしまった事情まで判明したので、今はもう疑いの余地はなかった。犯人は三郎王子であるというので、五人の神楽太夫から得た人相書によって、県下は申すに及ばず隣県各地まで、三郎王子探索の手配りがされたのがその夜の十一時。  交通不便な田舎の、しかも当時としては、これ以上は望めないほど、それは敏速な手配であったが、しかし一方これを事件そのものから考えると、この手配りがかなり遅れていたことは否めない。殺人の行なわれたのは前日の午前中であるから、仮にこれを正午としても、翌日の夜の十一時までには三十五、六時間が経過しているのである。それだけあれば犯人が高跳びするには十分である。  だがそれにもかかわらず、警察当局が彼らの手配に希望を持っていたのは、三郎王子の服装である。揉烏帽子《もみえぼし》に羽織|袴《はかま》という扮装はどこへ行っても目立ちやすい。仮に烏帽子は隠し袴は脱ぐとしても、紋付きはどうすることもできない。五人の神楽太夫の話によると、三郎王子はごくわずかの煙草《たばこ》銭しか持っていなかったということであるから、着替えを購《もと》めるなど思いもよらぬことなのである。  しかし、それにもかかわらず翌日の昼ごろまでには三郎王子の消息は杳《よう》としてわからなかった。だれ一人そういう風体を見たというような情報は入らなかった。そしてそこへ三郎四郎両王子の父親が郷里の村から駆けつけてきた。  前にもいったとおり三郎王子と四郎王子は従兄弟同士であるから、駆けつけてきた、二人の父親は兄弟であった。この二人も口をそろえて、死体の着衣や揉烏帽子を四郎王子のものであると断定した。ところがその時である。昨日から熱心にこの事件の捜査に当たっていた若い警部補が、ふと横から口を出した。 「着衣ばかりでなく、死体そのものをもっとよく見てくれ、ひょっとするとそれは三郎王子ではないかね」  それを聞くとそばに居合わせた彼の上役も二人の父親も、妙な顔をしたが、それでも父親たちは改めて死体をていねいに調べた。しかし、その結果はやっぱりわかりかねるということであった。三郎四郎の二人は従兄弟同士であるから、顔はそれほどでないとしても、体つきは非常によく似ていた。背格好から肉づき、肌の色までびっくりするほどよく似ていて、後ろ姿を見ただけではよく取りちがえることがあったという。 「しかし、どこかに何か目印があろう。三郎でも四郎でもいいんだ。黒子《ほくろ》だとか痣《あざ》だとか——それに二十三、四にもなったら傷跡の一つぐらいあるはずだ」  そういわれて三郎王子の父親がふと思い出したのは、彼の息子は小さい時にけがをして、その傷跡が右の脛《すね》小僧に残っていたというのである。それを聞くと若い警部は、死体に跳びついて右の脛小僧を改めたが、すぐチェッといまいましそうに舌打ちした。そこは肉がはがれてがっくりと大きな口が開いているのである。傷があったにしてもなかったにしても、これではわかりようがなかった。  しかし若い警部補はこれでもまだ断念しなかった。彼はしばらく考えていたが、やがて思い切ったように上役の警部に向かって、三郎と四郎が張り合っていた若いおかみさんを呼ぶわけにはいくまいかと言った。 「どうしたんだい。きみは死体の身元に疑問があるというのかい」 「そういうわけじゃありませんが、念には念を入れよで、はっきりさせておきたいんです」  上役にも格別の異存があるわけではなかったので、すぐ若い女房が呼び寄せられた。  なるほどその女は二人が張り合っていただけあって、ちょっと渋皮のむけた器量であったが、初めのうちは外聞をはばかってなかなかほんとうのことをいわなかった。しかし若い警部補が脅《おど》したり、賺《すか》したり根気よく問い詰めているうちに、とうとう彼女も隠し切れなくなってほんとうのことを打ち明けたが、それはちょっと意外な事実であった。彼女が関係していたのは四郎王子ではなく三郎王子のほうであった。 「そして……」  と、彼女が顔を赧《あか》らめ口ごもりながらいうのに、 「旅へ出る少し前のことでした。あの人が、遊びに来まして……その時ちょっと悪ふざけが過ぎて、わたしあの人の右の二の腕にかぶりついて……ええ、旅へ出る時もその跡がくろずんだ紫色に残っておりました」  警部補はそれを聞くと、また死体に跳びついたが、こんどは彼も勝ち誇ったように勝利の叫びをあげたのである。死体の右の二の腕には、ごくかすかながら、紫色の歯型が残っていた。その死体は四郎王子ではなく三郎王子であったのである。     三 「なるほど……」  そこまで聞くと私はちょっと微笑《ほほえ》んだ。 「それは顔のない死体ですね」 「え?」  語り手は怪訝《けげん》そうな眼で私の顔を見直す。 「いえね。探偵小説にはよくそういうトリックが出てくるのです。つまり人を殺しておいて、その相好《そうごう》をわからなくして、それに自分の着物を着せておくとか、持ち物を持たせておくとか……そうして被害者を自分であるように見せておく。つまり自分は死んだものになって捜査の眼をくらますわけです。ところが近ごろでは読者のほうでも眼が肥えてきて、探偵小説で被害者の顔がわからないというような事件があると、すぐははあ、これは犯人と被害者とが入れかわっているなと気がついてしまうんです。われわれの仲間ではこれを『顔のない死体』と呼んでいますよ」  私が得意になって述べると、相手は感心したようにうなずいて、 「なるほど、するとその警部補も、探偵小説の読者だったのかもしれませんね。もっとも彼がその時上役にいった言葉によると、死体の着物の着こなしに妙なところがあったそうで、どうもだれかが、死体になった後から着せたように思われる。……そういうところから思いついたといってましたが、これは探偵小説を読んでいて、そういう予備知識があったところへ、着物の着こなしに気がついたから、そこでピンと来たのかもしれませんね」 「すると探偵小説もまんざら無用の長物じゃありませんね」  私がいよいよ得意になると、語り手はにやりと薄い微笑を漏らした。 「そうです、そうです。それで若い警部補は大いに面目を施したんですからね。しかし、だいぶ時間が長くなったようですから、後はできるだけ簡単にお話ししましょう。そういうわけで被害者が三郎王子とわかったものだから、こんどはまた改めて四郎王子捜索の手配をすることになりました。ところが三郎にしろ四郎にしろ、服装は似たり寄ったりのものです。揉烏帽子《もみえぼし》に紋付の羽織|袴《はかま》——そういう姿で逃げのびられるはずはないのです。にもかかわらず、依然としてその消息がわからない。そこでまた探偵小説好きの警部補がこんな知恵を出しました。四郎はどこかで着物を替えたに違いない。しかし彼もやっぱり煙草銭くらいしか金を持っていなかったということだから、着替えの着物は買ったのではなく盗んだのだ。しかし盗んだとすれば盗まれた者があるに違いなく盗まれれば届け出があるはずだ。ところがそれがないところをみると、盗まれても届け出ることのできない人物、案山子《かかし》みたいな奴《やつ》——案山子——案山子——案山子——と、そこまで考えて警部補ははたと膝《ひざ》を打ちました。今と違ってその当時は、それほど衣料には困っていないから、案山子でも相当の着物を着ている奴がある。むろんボロですが犯人にとっちゃボロでもいい。裸でさえなければいいわけですから。——そこで現場付近の案山子を調べると……」 「ありましたか。裸にされた案山子が?」 「ありました。山の黍《きび》畑に二つ……一つはシャツと半ズボンを盗まれ、一つは破れ帽子とやっぱりシャツを盗まれているんです」 「大手柄ですね。警部補さん。なるほど案山子とはよい思いつきだ。犯人は案山子の着物に着替えて逃げたんですね。で、捕まりましたか犯人は——?」 「それがねえ。それで犯人が捕まればあなたのおっしゃるように大手柄なんですが、それでもやっぱり四郎王子の行方がわからないんです」 「一月たっても二月たってもわからない。むろん、郷里の彼の家も刑事が張っていますが、なんの音|沙汰《さた》もない。懐中に持っている金額からいっても、そう長く隠れていられるはずはなし、といって親戚《しんせき》知人の家へ立ち寄った形跡もない。で、結局、どこかの淵河《ふちかわ》へ人知れず身投げでもしたのだろうということになっていると、またここに妙なことが起こったのです」 「妙なことというと……?」 「年も改まった二月のことでした。新《しん》でいえば二月ですが、旧でいえば正月です。その正月に殺された三郎王子の妹が岡山の親戚へ遊びにいったところが、ある古着屋に、三郎王子の紋付が下がっているのを発見したんです。三郎の着物は四郎が着て逃げたわけですから、さあ、そこでまた騒ぎが蒸し返されました。警察の者が調べたところが、その紋付は去年の暮れに買い入れたことが帳簿によってわかりました。しかし売り払った男の人柄がどうしてもわからない。なにしろ年末の古着屋としてはいちばん忙しい最中だからどうしても思い出せないというんです。帳簿にはむろん売った男の名前も載っていますが、こんなものは当てになりません。しかし、これで去年の暮れまで四郎王子が生きていたことがわかり、しかも岡山付近をうろついているということも判明しました。そこでまた捜査が蒸し返されたのですが、こんどもまただめで……」 「すると四郎王子は結局捕まらなかったのですか」 「そうです、捕まりはしませんでした。しかし見つかったことは見つかったのですよ」  私には謎《なぞ》のような言葉の意味がよくわからなかったので、黙って相手の顔を見ていると、語り手は薄い微笑を漏らして話をつづけた。 「しかもそれが警察の力ではなく偶然のことから見つかったのですよ、それは事件があってから丸一年たったやっぱり秋のことです。この前、去年三郎と四郎が格闘を演じた草叢《くさむら》の付近へ茸《きのこ》引きに来た一人の男が、草叢の中からニューッと二本の脚の骨が出ているのを見つけたんです。その少し前に大|嵐《あらし》がありましたから、その時|崖《がけ》崩れがあって埋めてあった死体が出てきたんですね。それでまた大騒ぎになって死体を掘り出したところが、肉はもちろん腐ってましたが身の丈骨格から言って、これが四郎王子ではないかということになったんです。しかもこの四郎王子の明らかな他殺の証拠は、頭蓋骨《ずがいこつ》がくしゃくしゃに割れて……。しかも裸で埋めてあったらしく衣類らしいものは一つもないんです」 「へへえ、すると四郎王子も殺されていたんですか」  私は思わず唾《つば》をのんだ。語り手はまたにやりと薄い微笑を漏らした。 「そうなんです。四郎もやっぱり三郎と同じ時に殺されたんです。犯人——? ええ、その犯人はすぐわかりましたよ。四郎が殺されていたということが評判になってから間もなくあのマツノオさんが気が変になって、妙なことを口走り出したんです。で、早速そいつを引っ張って調べたんですが、それで何もかもわかりましたよ。あの時マツノオさんは二人を探してくるといって引き返しましたね。太郎王子もそれについて行きましたが、二人は始終いっしょじゃなかったんです。途中で別れて別々に探しにいったんです。それで、マツノオさんが一人で山の中へ探しに入ると、あの崖《がけ》の上で二人が争っている。そこで近寄って仲裁するようなふうをして、とうとう二人とも殴り殺してしまったんです」 「へへえ、で、動機は?」 「動機はやっぱりあの女でした。マツノオさん、だいぶ以前からその女と関係があったんです。なんといってもマツノオさんがいちばん働き者ですからね。ところが岡田の祭りの王子割りで、三郎と四郎もその女と怪しいことがわかったので、とうとう二人とも殺《や》っつけてしまったんですよ。なにしろその女というのが博愛主義でね、三郎とも四郎とも関係があったらしいんですよ」 「しかし、着物が変わっていたのは……?」 「それはこうです。ここがおもしろいところですよ。二人を殺した後でマツノオさん、一人の死体を埋めようと考えた。そうすればそいつに嫌疑《けんぎ》がかかるというわけですね。埋めるのはどっちでもよかった。三郎でも四郎でもね……ところがそこでマツノオさん、妙に欲ばった考えを起こしたんです。埋める死体に着物を着せておくのはもったいない。そいつを剥《は》いでおけば後日金になるとね。恐ろしいといえば恐ろしいが妙な奴ですよ。で、まず四郎を埋めるつもりでその着物を脱がせたんですが、気がつくとそれにはいっぱい血がついている。こいつはいけないというのでまた三郎を裸にした。そこで衣類が二着と、裸の死体が二つできたわけですが、マツノオさん、うっかり四郎を先に埋めてしまった。そして血だらけの四郎の着物を残った三郎に着せたんです。紋付のことですからどちらがどちらやらわからなかったんでしょう。いちいち紋まで調べる余裕なんてありませんや。そして四郎の着物を着た三郎の死体を崖《がけ》から突き落としたんですが、あの顔はやっぱり崖から転げ落ちる時にできたので、犯人が故意にやったわけじゃなかったんです」  私はなんだかだまされたような気がした。と、同時にさっき得意になったのが恥ずかしく、憮然《ぶぜん》として控えていると、語り手はまた、例の薄い微笑をうかべて最後にこんなことをいった。 「それから例の案山子《かかし》ですが、案山子の着物を盗んだ奴もわかりましたよ。なに、このほうはもっと早く捕まったので、そいつはこの辺をうろついてる乞食《こじき》でしたよ。さて、以上のようなことからどういう結果が起こったかというと、あの探偵小説好きの若い警部補はすっかり面目を失いましてね。先生、持っている探偵小説を糞《くそ》食らえッとばかりに火にくべて、警部補の職も辞めてしまいましたよ。そして……そして、いまあなたの前でこんな話をしているわけです。はっはっはっ」 [#改ページ] [#見出し]  靨《えくぼ》     一  その絵は別に優れた出来でもなければ大作というわけでもなかった。手法はクラシックだが技巧は幼稚で、構図にも配色にも生硬《せいこう》なところが少なくなかった。ただ悪く気取ったところがなく、親切に素直に画《か》かれているので、しぜんと好感が持たれるような絵であった。  モデルは二十一、二の束髪の婦人だが、この絵だけでは娘とも人妻とも判断しかねる。暖かい色のセルを着ていて、池のほとりの石に腰をおろし、体を少し斜に左手を水に浸し、右手は膝のうえで軽く袂《たもと》をおさえている。池の中をのぞいていたのが、ふと振り返って微笑した、と、そういう瞬間をとらえようとしたものらしいが、この画家には少し荷が勝っていると見え、全体のポーズに崩れたところが見えるのみならず、セルの線や皺の技巧にも曖昧《あいまい》なところがあった。しかし顔だけはさすがに精力を注いだと見えてよく描けている。  眼の大きな下ぶくれの顔が、赤、藍、白の調和色でふっくらと写され、あたたかい微笑の影と、双頬にきざまれた靨の陰翳が、優しい愛情でたくみにとらえられている。画家の署名はローマ字で毛利とあった。  私がこの絵を見たのは宿へ着いた翌朝のことで、湯殿からの帰りに通りかかった座敷の床の間に、沈んだ色を放っている金縁の光が、ふと私の眼をとらえたのである。  そこは中部岡山県の、軽便鉄道の駅からでも、一里以上も歩かねばならぬ山奥の湯治場だが、宿といってはこの家が一軒きりだった。この家とても近ごろは締めきりになっていたのだが、昔は相当さかった宿なので、客を泊める設備はひととおり備わっており、家のつくりもりっぱである。近在きっての資産家だということはここへ来る途中で聞いた。  実は、私はずっと前にここへ来たことがあるので、こんど復員すると、しばらくどこかで自分の気持ちを整理したく、そこで一番に思い出したのがこの宿だった。前に来た時から十年近くもたっているし、こんどの戦争でどうかと危ぶまれたが、ともかくもとがたぴしの軽便鉄道にゆられて来たわけだが、軽便をおりたT町からここまでスーツケースを載せてもらった荷馬車の馬子《まご》から、果たして不安な便りを聞いた。  彼はこんなことをいうのである。  蓑浦《みのうら》さんでは七、八年前から締めきりで、客は一切断わっている。それというのがあそこで恐ろしい人殺しがあったからであると。人殺しと聞いて私は眉《まゆ》をひそめた。客の間で喧嘩《けんか》でもあったのかと尋ねると、いや、そうではない、殺されたのは蓑浦家の者であるというので、私はいよいよ眉をひそめた。 「あの家の人といえば五十ぐらいの御主人と、御主人の妹という人と、そうそう、それからきれいなお嬢さんがあったはずだが……」  と私が尋ねると、 「旦那《だんな》はよく御存じですね。しかし殺されたのはその人たちじゃなくて、いまおっしゃったお嬢さん浄美《きよみ》さんという人ですが、その浄美さんのお婿さん、つまり御養子なんです」  それから彼はこんなことをいった。だいたい蓑浦家では養子をする必要はなかった。浄美さんにはりっぱな弟が一人ある。それだのに先の旦那が浄美さんを眼の中へ入れても痛くないほどかわいがって、外へ出すことを承知しなかった。養子のほうでも、養子になど来ることはなかった。町でも一番といわれる資産家の次男で、分け前もたくさん持っている。ところがその人が浄美さんの器量に惚《ほ》れ込んで、嫁にもらえないなら養子でもけっこうということになった。それが浄美さんが十八の年で、翌年旦那が亡くなり、そしてその次ぎの年あの恐ろしいことが起こったのであると。 「それで浄美さんという人はどうしているの」 「やっぱりあの家にいますよ。叔母のお志保さんと二人で……浄美さんの弟は兵隊にいったきりまだ帰ってこないので、今じゃあの広い家に二人っきりなんです」 「で、変わりはないんだろうね。その浄美さんというのは……?」 「ところが、あの人も気の毒な人で、事件があってからちっとも外へお出にならないで、近ごろでは床についたきりのようですよ」  それではいよいよ泊めてもらえないかもしれないと私が心配すると、なに、その心配ならいらない、蓑浦で泊めてくれなければ、もう半里歩きなさい。そこにも湯治場があって、米さえ持っていけば泊めてくれると馬子は教えてくれた。米なら私も多少用意してきたが、初めてのところはいやだった。なんとかして蓑浦で泊めてもらえる方法はないだろうかと相談すると、馬子はさあと首をかしげていた。 「いったいその養子が殺されたというのはどういうわけだね。やはり家の中がうまくいかなかったのかね」 「いえ、そんなことじゃありません。御養子が殺されたにはほかにわけがあるんです」  馬子はあわてて打ち消したが、それから間もなく私たちは、村の入り口の岐路のところで別れたのである。  私はたっぷり十分間もその絵の前に立っていたろうか。ふと背後に人の気配を感じたので振り返ってみると、廊下にひとり品のいい老婦人が立っていて、眼鏡越しにじっとこちらを見ていたが、私が振り返ると少しあわて気味に会釈《えしやく》して通りすぎた。私も無断でひとの座敷へ入りこんだことが気にとがめたので、急いで自分の部屋へ帰ってくると、少女が朝飯の膳《ぜん》を持ったまままごまごしていた。 「失敬失敬、廊下鳶《ろうかとんび》をしていたもんだから……」  ぬれ手ぬぐいを衣桁《いこう》にかけると、私はすぐに膳に向かった。少女は無言のまま赤くふくれた手で白い飯をよそってくれた。  昨日私がこの家へ着いた時、玄関へ現われたのもこの少女だったが、その時私は一も二もなく跳ねつけられた。私が押して頼んでも彼女は頑《がん》として肯《き》かなかった。それでも私が困《こう》じ果てて立ち去りかねていると、もう半里も歩けば泊めてくれるところがあると、馬子と同じようなことを教えてくれた。私はそれで、いやでもこの家を出なければならなかった。ところがものの半町と歩かないうちに、この少女が追っかけてきて、ただいまは失礼いたしました。奥様に申し上げると、それではお困りでしょうから、何もできないのを御承知ならばと、さっきとは打って変わったていねいな挨拶《あいさつ》で、私はようやくこの家へ泊まることができたのである。 「きみ、昨夜僕を泊めてくれたのは、さっき廊下にいた、あの品のいい御婦人かい」 「いいえ、あれは奥さんの叔母さんでございます。昨夜|旦那《だんな》をお泊めするようにおっしゃった奥さんは、離れでお休みでございます」 「そうそう、奥さんは御病気だってね。どこが悪いんだい」 「さあ、先生のおっしゃるには気病みだとかで……」 「俗にいうぶらぶら病というやつだね。時に、さっき向こうの座敷でたいへんきれいな女の人の絵を見たが、あれはだれだい」 「あれが奥さんでございます。でも、あれはずっと先にかいたものだそうで……近ごろはたいそうお痩《や》せになって……」  私はその少女が出した宿帳に、諸井謙介《もろいけんすけ》、三十四歳、小説家と書き入れた。その宿帳はもう長いこと使わないものらしく、最後に記入された名前は毛利英三《もうりえいぞう》という画家の名前で、日付は昭和十二年の秋だった。  遅い朝飯をすますと私は庭へおりてみた。先の主人の好みでつくられたその庭は、この前来たときと少しも変わっていなかった。築山《つきやま》や泉水の向こうに平家建ての洋館があり、その洋館と鉤《かぎ》の手になったところに離れがある。それらの離れや洋館は、いま私のいる母屋《おもや》と渡り廊下でつながれている。  その洋館のそばに裏木戸があることを思い出して、私が庭をつっきっていくと、離れの障子が中から開いて、さっきの婦人が顔を出した。私はあわてて頭を下げると、 「ちょっと散歩してきます。午飯《ひるめし》は抜きにしますから御心配くださらないように」  私は裏木戸を出ていくまで、老婦人の視線を背後に感じていた。私の胸はちょっと躍った。お志保さんは自分を覚えているかしら。いや、あれからもうずいぶんたつし、しかも戦争のために自分の容貌《ようぼう》はすっかり変わっている。まさか気のつくようなことはあるまい。……  裏木戸を出ると道はかなりの傾斜で裏山へつづいている。この道を行くと山越しでT町へ出られることを私は知っていた。村道を通ればT町まで一時間半はかかるが、山越えをすれば四十分で行けるのである。ただし途中に難所があるので、めったにこの道を利用する者はなかった。その難所というのはちょうどT町までの中間にあって、宿を出てからどんなに急いでも二十分はたっぷりかかる。私はとうとうその難所までやってきた。  そこは俗に地蔵崩れといわれていた。年々歳々そのへんの崖《がけ》が崩れていくので、いくら道を造っても、すぐ上から崩れてくる砂や礫《こいし》のために埋められてしまうのである。私はその地蔵崩れの手前まで来ると、崖の上に突き出している一枚岩の上に腰をおろした。  道はそこで断ち切られていて、行く手には地蔵崩れの傾斜が二町あまりもつづいている。はるか天空から十数丈の谷底まで落下しているその崖には、至る所にごつごつとした岩が突き出しているが、その岩と岩との間隙《かんげき》をうずめる花崗岩《かこうがん》は時々刻々風化して、ざらざらと音を立てながら下の谷へ流れていく。崖のあちこちには育ちのわるい赤松が、根も露《あら》わにひょろひょろ生えていた。  ふと背後の山の中で人の気配がしたので、私は驚いて振り返った。見るとそれは昨日の馬子であった。腰に鉈《なた》をさしているところを見ると木を伐《き》りに来たものらしい。馬子は坂の途中に立ち止まって、怪しむように私のほうを見ていたが、やっと私だとわかると、頬《ほお》かむりをとっておりてきた。 「いい塩梅《あんばい》に蓑浦さんで泊めてくれましたね」 「ああ、おかげでもう半里歩くのを助かった」 「それはけっこうでした」  馬子も私とならんで腰を下ろすと、煙草《たばこ》を出してすいつけた。そして私の顔を見ながら、 「旦那はあの話をお聞きでしたか」 「あの話とは……?」 「ほら、昨日私がお話しした……蓑浦さんの御養子が殺されたって話でさ」 「いいや、聞かないね。第一そんな暇もない」 「そうですか。それゃ……私ゃまただれかにあの話を聞いて、それでわざわざここを見においでなすったのかと思った」 「それじゃ、ここが……」 「へえ、そうですよ。私が一番に見つけたんでさ。蓑浦さんの養子の康夫《やすお》さんが、ほら、二丈ばかり下に出っ張ってるでしょう。あの岩に引っ懸かってたんでさ。額《ひたい》をこっぴどくぶち割られてましてね」 「いったい、それはどうしたんだね」 「へえ、殺した奴《やつ》もわかってます。T町の者でしてね。もとは相当の家の者だったんですが、身を持ち崩して二度も三度も牢《ろう》へ入ったことのある奴なんです。康夫さんもえらい奴に見込まれたもんで、なんでもそいつの妹というのと、何かあったんですね。その妹というのはおとなしい女だったそうですが、康夫さんに捨てられて毒をのんで死んじまったんです。で、兄貴が妹の敵《かたき》討ちをしたというわけですね」 「そして、その犯人というのはどうしたんだね」 「それがねえ。それっきり行方がわからないんですよ。きっと満州へでも飛んだんだろうといってましたが、そこへこんどの戦争でしょう。捕まったって話はききませんねえ。名前はたしか青沼とかいいましたっけ。もとはしごくおとなしい男だったんですが、人間狂い出すと始末が悪い。しかしさすがに妹だけはかわいがっていたそうですよ。妹の名はお小夜《さよ》というんですが、なかなか別嬪《べつぴん》でした。もっとも蓑浦さんのお嬢さんにゃかないませんがねえ」  その夜、飯がすんでから、ぼんやり私が持ってきた本を開いていると、そこへ例の少女が現われて、お手すきでしたら向こうの離れで、お茶でも差し上げたいというお志保さんの口上を取り次いだ。それを聞くと私は思わずどきりとした。 「そう、それじゃすぐ行くと言ってくれたまえ」  少女が立ち去ると私はそわそわと立ち上がって座敷のなかを歩き回った。戦争で心臓を悪くしてから、私はちょっとしたことにも動悸《どうき》をおぼえるようになっているのである。コップに水を注いでのむと、それでもいくらか気が落ち着いたので、私は初めて座敷を出た。  お志保さんが茶をいれようという離れは、二|間《ま》つづきになっていて、その一方には病人が寝ているはずである。私が案内されたのはその隣りの六畳で、そこは近ごろお志保さんの居間になっているらしく、茶箪笥《ちやだんす》だの長|火鉢《ひばち》だのが置いてある。壁の一方ははめ込みの箪笥になっていて、その箪笥の一部分に中型の金庫が冷たい色を光らせていた。隣りの部屋との境には、ピッタリ襖《ふすま》がしまっている。 「せっかく来ていただいても何もございませんのですけれど……さあ、どうぞお当てくださいまし」  私はすすめられる座布団に座る前に、そこの床の間に、さっきの肖像画が立てかけてあるのを見てまたぎょっとした。私は探るようにお志保さんのほうを見たが、お志保さんのほうでも私の様子を見ていたらしく、二人の視線が合うとお志保さんはあわてて眼を逸らした。 「近ごろのことですからほんとに何もございませんのよ。こんな物で失礼ですけれど」  お志保さんは梅型の木皿《きざら》にみごとなつるし柿《がき》を盛ってくれた。私がいつかここへ来た時もやっぱり秋で、そのとき私はこの柿を、よろこんでさかんに食べたものである。しかし今の私はその柿に、手を出す気にもなれなかった。私はただ全身の神経を耳に集めて、隣室の様子をうかがっていた。しかしそこには人の気配はあっても、こそとの音もしなかった。 「昨日あなたは三蔵といっしょだったそうですね」  お志保さんは茶を注ぎながら静かにいった。そして私が怪訝《けげん》そうに顔を見直すと、荷馬車|曳《ひ》きの三蔵ですよと付け加えた。それから、あの三蔵になにかお聴きではなかったかと尋ねた。私は黙ってお志保さんの顔を見ていた。聴かなかったといえば嘘《うそ》になる。聴いたといえば三蔵の迷惑になるのかもしれない。私は黙っているより仕方がなかった。 「お聴きになっても構いませんのよ。このへんではだれでも知っている話ですから。それで今日地蔵崩れへいらしたのでしょう?」  それについても私は黙ってひかえていた。お志保さんはおりおり私の顔を見るが、そこにはなんとなく腑《ふ》に落ちかねる色があった。何か彼女は思い迷っているらしかった。 「あなたは小説をお書きになる方だそうですね。そうすると画家さんなんかにもお知り合いがございましょうね。もしや……」  と、彼女は一心に私の顔を見つめながら、 「毛利さんという方を御存じではございますまいか。毛利英三という方で、お年はたぶんあなたと同じくらいと思いますけれど」  私は掌《て》の中で茶碗《ちやわん》をまわしながら、 「あの絵をかいた男ですね」 「そうです、そうです。御存じですか」 「いいえ」  低い声で答えると、お志保さんはがっかりしたように顔をそむけた。そして何か思案をするように、火鉢《ひばち》の灰に字をかいていたが、やがて思い切ったように座り直した。 「実は今夜こうしてお招きしたのは、その方のことについて聴いていただきたいことがございまして……それはまた、たぶんあなたがお聴きになったと思われるあの人殺しのこととも関係がございますので……いかがでしょう、聴いていただけますかしら」 「はあ……」 「あの、御迷惑ではございませんか」 「いいえ、どうぞ」 「そうですか。それでは思いきってお話ししてみましょう」  お志保さんはまた、眼鏡の奥から探るように、じっと私の顔を見ていたが、やがてちょっと隣りの部屋へ気をおいて、それからゆっくり、次ぎのような話をはじめたのである。     二  あれは昭和十二年のことですから、もうかれこれ十年にもなります。その年の秋の初めころ、この家へ一人の画家さんが泊めてくれといってお見えになりました。  その時分からこの家は湯治宿をやめていましたので、いったんはお断わり申し上げたのでございますが、その方は三年ほど前にもここへお泊まりになったことがあるとやらで、亡くなった私の兄のことなどもよく御存じですし、それにその時ちょうど家に居合わせた婿の康夫さんというのが、お泊めしてあげたらと勧めますので、とうとうお宿をすることになりました。それが毛利英三さんとおっしゃる方で、その時分二十五、六でいらっしゃいました。  ここでその時分のこの家の様子を申し上げておかねばなりませんが、当時ここにおりましたのは奉公人をのぞいては、私と、姪《めい》の浄美《きよみ》と、浄美の婿の康夫さんと、この三人きりでした。浄美の父、つまり私の兄はその前年亡くなっていました。ところでその毛利さんという方が、この前ここへおいでになった時は、浄美はまだ岡山の女学校の寄宿舎にいましたし、私もこの家へはまいっておりませんでしたので、みんなその時お眼にかかるのが初めてでした。でも毛利さんは浄美の父のことをよく知っていらっしゃって、しきりに昔話をしては懐かしがってくださいますので、しぜん私たちもうれしくて、よい感じを持つようになったのでございます。  さて、話が少し前後しましたが、毛利さんが、おいでになると間もなく、婿の康夫さんがまた家をあけることになりました。それというのが、この康夫さんというのがたいそう事業好きの人でして、やれ製材所を作るの、やれ乗合自動車の会社をこさえるのと、年じゅう家を外に跳び回っているのでございます。その時もここから十里ばかり奥に砂鉄が出るとか申しまして、鉱山会社をこしらえ、その鉱山の小屋とT町にある事務所のあいだを跳び歩いていて、めったにここへ帰ることはなかったのでございます。それが珍しく毛利さんがお見えになった時、五日ほどここにいたのでございますが、間もなくまた鉱山のほうへ出かけることになりました。ところが出かける前に康夫さんが、ふとこんなことを言い出したのでございます。  こんどはたぶん一月ぐらい帰れまいと思うが、浄美さん、どうだ、その間に毛利さんに肖像をかいていただいたら……と、こういうのでございます。ところで浄美という子は、以前はたいへん朗らかな、人なつこい性分だったのでございますが、その時分、妙に内気になっていて、ですからその時もはかばかしい返事もいたしませんでしたが、毛利さんもそれをお聴きになると非常に乗り気になって、ぜひかかせてくださいとおっしゃいますし、康夫さんもかたがたお勧めなさるので、それでとうとうお願いすることになりました。 「それじゃ僕が帰ってくるまでに仕上げておいてください。それを楽しみに帰ってくるから。そうだ、毛利さんにはあの洋館を使っていただいたらいいだろう。あそこなら明るくていい」  と、そういうお約束ができて、康夫さんがこの家を出たのが九月の終わりのことでした。  そこで翌日、毛利さんにあの洋館へ替わっていただき、早速制作にかかっていただいたのでございますが、その時、一月ほどかかってできたのがこの肖像画でございます。  毛利さんはこの絵ができ上がると、すぐ出発なさるおつもりだったらしいのですが、康夫さんもおっつけ帰りましょうからと、私が強《た》ってお引き止めして、絵のでき上がった次ぎの晩、毛利さんをここへお招きしたのでございます。  それというのが絵のできる間じゅう、私は毛利さんにたいへん失礼をいたしまして。……なにしろ若い者同士のことですから、もし間違いがあってはと、これが年寄りの取り越し苦労でございましょうねえ、たいそう用心をいたしまして、絵をかく時はいつも二人のそばについておりますし、毛利さんにもなるべくよい顔を見せないようにしていたのでございます。もっとも毛利さんという方は気さくなおもしろい方で、冗談もおっしゃる時にはおっしゃいますが、わきまえるところはちゃんとわきまえているといった方で、私の素振りに気がつくと、自分でもなるべく控えるようにして、毎日一時間ずつ絵をかく時のほかは、決して浄美と差し向かいになるようなことはございませんでした。浄美のほうは申すまでもございません。  そういうことがございましたので、一つには毛利さんへのお詫《わ》び心、ひとつには絵のでき上がったお祝いという意味で、ここで浄美と三人いっしょに、御飯を食べていただくことにしたのですが、忘れもしない、それが十月二十五日の晩のこと。ところがお食事も終わって、三人が久しぶりに打ちくつろいで話をしておりますと、あれは八時ごろのことでしたでしょうか、だしぬけに康夫さんが女中の知らせもなく、ここへ入ってきたのでございます。しかもその様子というのが唯事《ただごと》ではございませんので、私たち三人ともびっくりしてしまいました。  康夫さんはズボンもオーバーも泥だらけにして、頬《ほお》や手の甲にもかすり傷を受けて血がにじんでいます。腕時計も壊れてガラスも針もなくなっていますし、それにその顔色ったら! 「まあ、康夫さん、どうなすったのです」  私があきれて詰《なじ》るように尋ねますと、 「ああ、馬鹿を見た。近道をしようと思ったら、地蔵崩れで足を踏み滑らして……」 「まあまあ、今時分あんなところを通るなんて。……でも、それぐらいのけがですんでけっこうでした。浄美さんお着物を」  浄美の手伝いで着替えると、康夫さんはやっとくつろいだようにちゃぶ台の前に座りましたが、その時毛利さんが挨拶《あいさつ》をなさると、初めて気がついたように、 「ああ、きみか、きみはまだいたのか」  と、これは意外な挨拶でした。毛利さんはいやな顔をなさいますし、浄美も眉《まゆ》をひそめますし、見るに見かねて私が、 「まあ、康夫さん、何をおっしゃるのです。毛利さんはあなたがお引き止めしたのではありませんか。あなたのお頼みで浄美さんの肖像をかいていただいて、昨日やっとそれができ上がったので、今夜はお祝いにお招きしたのですよ」  私がそう申しますと、 「ああ、そう、そうでしたね。いや、これは失礼、つい、うっかりして……浄美、ウイスキーがあったろう。あれを出してくれ」  その晩のことは思い出してもいやになります。康夫さんはしたたかウイスキーをあおってすっかり酔っ払ってしまって……自分から頼んでおきながら、肝心の肖像画のことはおくびにも出そうといたしません。それで毛利さんが気を悪くなすったのか、座を外そうとなさると、その時初めて思い出したように、 「そうそう、忘れていた。それじゃ早速、その絵を拝見しよう。どこにあるんだい。なに、洋館か、よしよし、きみたちも来たまえ」  そういってひょろひょろ立ち上がると、今夜は酔うているから明日になさいと止めるのも聴かずに洋館へ入っていきました。そしてあの絵の前に立ってしばらく眼動《まじろ》ぎもしないで見つめていましたが、だしぬけに酔っ払い特有の調子っ外れの声をあげて笑うと、 「いや、けっこうけっこう。たいへんよくかけた。浄美、きみもうれしいだろう。あっはっはっ」  そういってまた大声をあげて笑うと、にわかにげろげろ汚いものを吐き出しまして。……私たちは毛利さんにお気の毒で言葉にも窮しましたが、幸い翌日になると康夫さんも正気にかえって昨夜の無礼を詫《わ》びたうえ、改めて絵の出来を褒《ほ》め、ていねいに礼をいっていました。そして毛利さんが出発しようというのを、強《し》いてもう二、三日と、引き止めているうちに、あの恐ろしい出来事が起こったのでございます。  それは康夫さんが帰ってきた晩から、中一日おいた十月二十七日の夜のことでした。あの恐ろしい夜のことは、忘れようとしても忘れられませんが、ここにできるだけ順序よく、その晩のことをお話しいたしましょう。  七時ごろに晩飯がすむと間もなく、康夫さんの姿が見えなくなったので、私はなんとなく不安な気持ちで、浄美の枕《まくら》元に座っていたのでございます。言い忘れましたが、浄美は康夫さんが帰ってきた晩、徹宵《てつしよう》介抱をさせられたのがもとで、風邪《かぜ》をひいて寝ていたのでございます。私は妙に淋《さび》しい、頼りない気持ちで、浄美の熱を計ったり、氷嚢《ひようのう》をかえてやったりしていました。浄美はなんとも申しませんでしたが、それでも心の中でひとかたならず心配していることは、顔色からでもよくわかりました。康夫さんの姿がちょっと見えないくらいで、私たちがなぜそのように心配していたか、その理由はいずれ後に申し上げますが、とにかくそうして無言のまま、淋しい気持ちで座っておりますと、八時ごろのことでしたろうか、浄美がふと眼を開いて、こんなことを申すのでございます。 「叔母さん、毛利さんはいらして?」 「さあ……、毛利さんが、どうかしたの」 「いいえ、別に……」  私はなんとなく浄美の言葉が気になったので、そこの雨戸を開いてみますと、洋館の窓に毛利さんの影が映っておりました。何か考え事をしていらっしゃるのか、マドロスパイプをくわえたまま部屋の中を歩きまわっていらっしゃいました。 「浄美さん、毛利さんはいらっしゃるようよ」 「そう」  浄美は気のない返事をしましたが、私が雨戸を閉めようとすると、そこは閉めないでくれ、なんだか呼吸が詰まりそうな気がするからと申すのでございます。そこで雨戸をそのままにして、私がお部屋へ帰ろうとしますと、洋館の電気がパッと消えました。そして庭へおりるほうのドアから毛利さんの姿が現われました。毛利さんはいつものようにだぶだぶのコール天のズボンをはき、ゆるいブラウスを着て、ベレー帽をかぶり、マドロスパイプをくわえて、しばらく築山《つきやま》の向こうを歩いていらっしゃいましたが、やがてぶらぶら裏木戸から出ていらっしゃいました。  言い忘れましたがその晩はよい月夜で、そんな晩には毛利さんはよく散歩にお出かけになるので、私は別に気にも止めませんでした。それが八時ちょっと過ぎのことでございます。  それからまた私はぼんやりと浄美の枕元に座っておりましたが、やがて九時になりますと、浄美がもう退《さが》って寝てくれ、用事があったら呼ぶからと、しきりに申すのでございます。それで私も、強《し》いて病人に逆らってもよくあるまいと、自分のお部屋に引きとりますと、その時分いた清《きよ》という女中を相手にお茶を飲んでおりましたが、すると庭のほうであわただしい靴《くつ》の音がするのでございます。そこで床脇《とこわき》の窓を開いて外を見ますと、さっき私の開けておいた雨戸の隙《すき》から、康夫さんが中へ入っていく後ろ姿が見えました。 「どうしたのでしょう。旦那《だんな》さま、たいそうお急ぎの御様子でございましたね」  清の言葉に私はいやな気がしましたが、それでも康夫さんが帰ってきてくれたので安心しておりますと、ものの五分とたたないうちに、また庭のほうで靴音がします。驚いて私が窓からのぞいてみますと、康夫さんが急ぎ足で庭を突っ切って裏木戸のほうへ行くのです。私がおやと思っていますと、すぐその後から浄美が足袋はだしのまま跳び出してきて、後を追っかけていくのでございます。私も驚いてお部屋から跳び出しました。  これは後から浄美に聴いた話でございますが、その時あれはうつらうつらしていたのだそうでございます。するとそこへ康夫さんが帰ってきた様子なので、こちらへ来てくれるかと思っていると、その足音は隣りの部屋——つまりこの部屋でございますが、——こちらへ入ってきたのだそうでございます。その時、境の襖《ふすま》はぴったり閉まっておりましたが、浄美がその襖越しにお帰りなさいと声をかけますと、康夫さんはただ、 「ふむ」  と簡単に答えたきりで、金庫を開いているらしく、忙しく、ダイヤルを回す音がしたそうでございます。それからやがてがたんと金庫の開く音がしたかと思うと、中をかきまわしているらしく、がたがたという音がしていましたが、やがてまたばたんと金庫を締めると、そのままそそくさと出ていったのだそうでございます。その様子が唯事《ただごと》ではありませんので、浄美もはっと肚胸《とむね》をつかれる思いで、夢中で後から追いかけてきたのだそうでございます。  しかし、私たちが裏木戸へ駆けつけてきた時には、むろん康夫さんの姿は見えませんでした。そこで私が浄美をうながしてお部屋へ帰ろうといたしますと、その時、向こうから毛利さんが帰ってこられるのが見えました。毛利さんはマドロスパイプをくわえたまま、ぶらぶらこっちへ近づいてこられましたが、私たちの姿を見るとびっくりしてそばへ走ってきました。 「どうかなすったのですか」 「ああ、毛利さん、あなたそこらで康夫さんにお会いになりませんでしたか」  と私がお尋ねいたしますと、 「ああ、会いましたよ。なんだかひどく急いでいる模様で、声をかけると怖い顔で僕のほうをにらんだきり、向こうのほうへ行きましたよ」  その時、浄美がふいに私のほうへ倒れてきましたので、驚いて抱きとめながら顔を見ますと浄美はくちなしの花のように真《ま》っ蒼《さお》になって、しかも体は火のような熱なのでございました。その晩浄美は高い熱にうかされて、しきりにとりとめもない囈語《うわごと》をいいます。康夫さんは帰ってこないし、私は途方にくれましたが、幸い毛利さんが夜中ついていてくださいましたので、大助かりでございました。  さて、明け方ごろになって浄美の熱もだいぶ下がり、意識も回復いたしましたので、私もほっと安心しまして、毛利さんにも退《さが》っていただき、自分もお部屋へ帰って横になりましたが、すると、お午《ひる》過ぎのことでございます。女中の清にあわただしくたたき起こされたのでございます。そして康夫さんが殺されたということを、初めて聞いたのでございました。  お志保さんはそこで言葉を切ると、眼鏡の奥からじっと私の顔を見る。私は無言のまま首を垂れていたが、その時、私は知っていたのである。私のほかにもう一人、お志保さんの話に耳をすましている者のあることを。私は全身の官能をもって隣室の気配をうかがったが、しかしそこは墓場のように静かだった。お志保さんはまた語りつづけるのである。  康夫さんは地蔵崩れの崖《がけ》の途中に、額《ひたい》をたたき割られて死んでいたのでございます。つまり康夫さんはだれかと、崖の上で大|喧嘩《げんか》をしたあげく、額を割られ崖から、突き落とされて……。  ところで喧嘩の相手、つまり康夫さんを殺した人間はすぐにわかりました。というのは、その崖下の谷底から、犯人の遺留品が見つかったのでございます。まず第一に瘤々《こぶこぶ》だらけの太いもろ松のステッキですが、これにはべっとりと血がついておりました。それから犯人が血に染まった手をふいた日本手ぬぐいと、もう一つ手帳でございますが、それにも血に染まった指紋がはっきりついていたのだそうでございます。  そういう遺留品からすぐ犯人が青沼という人であることがわかりました。手ぬぐいも手帳ももろ松のステッキもみんなその人の物で、しかも血に染まった指紋まで、その人の指紋だということがわかったのでございます。青沼という人は二、三度|牢《ろう》へ入ったことがあるので、指紋台帳とやらにちゃんと載っていたのでございますね。それにその人には康夫さんを殺す動機もありまして、私たちがあの時分あんなに心配しておりましたのも、つまりはそれを知っていたからで、その事情というのはこうなのでございます。  康夫さんにはここへ養子に来る前から、ねんごろにしている婦人がありました。その人はお小夜《さよ》さんといって、しごく気質のよい、おとなしい人だったそうですが、この人と康夫さんとの仲は、康夫さんがこっちへ来てからも続いていたらしく、浄美などもうすうすそのことは感づいていた様子でした。ところがその人が突然毒をのんで自殺したのでございます。さすがにその人は慎み深い人とみえ、遺書には一言も康夫さんのことは書いてなかったそうですが、事情を知っている人は、康夫さんの薄情を恨んでの自殺だと、みんなそう申しておりました。  そのお小夜さんの兄さんというのが、いまいった、青沼という人なのでございます。その人は康夫さんをたいそう憎んで、いつかこの恨みは晴らしてやるといっていたそうですし、現にその時分、その人がもろ松のステッキを持って、この辺をうろついていたのを見た人は何人もあったのでございます。  で、警察ではこういうふうに考えたのでございます。あの晩、康夫さんは地蔵崩れで青沼という人に会ったのでしょう。たぶん金でもやって解決するつもりだったのが、その金額が少なかったので急いで家へとって返し、金庫の中にあった三百円を持ち出したのでございましょう。この金庫の符号は康夫さんだけしか知らないので、後でそれを開けるのに困りましたが、警察の方がいらしって、錠前を壊して中を調べたのです。それで初めて三百円という金が、持ち出されたことがわかったのでございます。  で、康夫さんはその金を持って地蔵崩れへ引き返しましたが、そこでどういうことになったのか、とうとう康夫さんはその人に殺されてしまったのでございましょう。ただ、おかしいのはその三百円ですが、二、三日してからそれが谷底の草叢《くさむら》の中から見つかったのです。それを見つけてくだすったのは毛利さんでございますが、たぶん犯人があまりあわてて取り落としたのだろう。そして探しても見つからなかったか、それとも探すひまもなく逃げてしまったのか、そのどちらかだろうということになりました。つまり青沼という人は、康夫さんを殺しておきながら、何一つとらずに逃げたということになるのでございます。さて、青沼という人ですが、この人はとうとう捕まらずじまいでした。おおかた満州へでも逃げてそこで野垂れ死にでもしたのだろう……と、ここまでがだれでも知っている話でございます。  ところが……ところが……それからずっと後になって、私たちは青沼という人がどうして捕まらなかったか、そのわけがはっきりわかったのでございますよ。しかもそれはなんともいえぬほど恐ろしい、たとえようもないほど気味悪いことでございました。  それは康夫さんが亡くなった翌年のことでございました。夏の終わりに大|嵐《あらし》がありまして、方々に崖崩れがございましたが、その時地蔵崩れにも大きな地滑りがあって、そして、その地滑りの後から死骸《しがい》が一つ転がり出しているのを、うちの爺《じい》やが見つけてきたのでございます。  そこが康夫さんの殺された場所であるだけに、私たちはその話を聞くとぎょっとしました。  それですぐに爺やに案内させて駆けつけましたが、その死骸が青沼という人に違いないとわかった時の私どもの驚き! むろん死骸はすっかり骨になっていましたが、洋服はまだそれほど腐ってはおりませんでした。その洋服のポケットから、私たちは一通の手紙を見つけ出したのでございますが、それはまぎれもなく康夫さんからお小夜さんにあてたもので、しかも……しかも……その文面というのが!  何もかも申し上げてしまいましょうねえ。その時分、お小夜さんは体に異常があったらしいのでございますね、それを、つまり……別に送った薬で始末をしてしまえ……と。  それはなんという恐ろしいことでございましょう。女のいちばん欣《よろこ》ばしいこと、誇らしいこと、その愛のしるしを薬で始末をしてしまえ……と、まあ、なんという残酷な手紙でございましょう。お小夜さんののんだ薬はむろんそれとは違っていましたが、この鬼のような手紙があの人に、死ぬ決心をさせたことは間違いございますまい。浄美もあまりの恐ろしさに、その手紙を読んだ時には泣き崩れたくらいでございます。  ところがその時私たちは、もう一つ妙なものを見つけたのでした。洋服の襟《えり》のあたりにコバルト色をした、ごく小さいものがきらきら光っているのでございます。それを見つけたのは浄美でしたが、なんの気もなくそれをつまみあげると、たちまち指でも火傷《やけど》をしたように、あっと叫んで振り落としてしまいました。それは時計の針、それも小さい腕時計の針でございました。  おわかりでございましょうねえ。一月ぶりに康夫さんが、取り乱した格好で帰ってきた時、あの人の腕時計がめちゃめちゃに壊れていて、ガラスも針もなくなっていたということは、さっきも申し上げましたわね。死体の洋服にささっていたのは、その腕時計の針でございました。  そうするとこれはどういうことになるのでございましょう。あの腕時計が壊れたのは、康夫さんが殺された前々夜のことでございましょう。その腕時計の針が死体といっしょに埋められたといたしますと、その死体——青沼という人がそこへ埋められたのは、康夫さんが殺されるより前だったということになりはいたしませんか。もし、そうだとすると、では、康夫さんを殺したのはいったいだれなのでしょう。いままで犯人だとばかり思われていた青沼さんが、康夫さんより二日も前に死んでいた……いや、ひょっとすると殺されたのかもしれません……と、いたしますと、康夫さんは、では、だれに殺されたのか。……  私たちは気が狂いそうになりました。わけても浄美のうけた打撃は恐ろしいものでございました。ともかく、その死体を、こんどこそ決してだれにも見つからぬところへ埋めますと、爺やにも固く口止めして帰りましたが、その晩から浄美は高い熱を出しまして、一時は生死もおぼつかないような状態でございました。  私はなんともいえぬ心細い思いで、昼も夜も枕元につききっておりましたが、ある晩のことでございます。うとうとしていた浄美が突然はっきりとこんなことをいうのでございます。  叔母さん、あの晩途中で帰ってきて、金庫を開いたのは康夫じゃなかったのよ……と。しかも、それが囈語《うわごと》なのですが、あまりはっきりしておりましたので、私もつい釣り込まれて、では、だれだったのと訊《き》き返しますと、あれは毛利さんだったのよ。私ちゃんと知っていたの。毛利さんはひどく緊張なさると、無意識で喉《のど》の奥の痰《たん》を切るような音をおさせになりますの。あの時、金庫のダイヤルを回すとき、私はそれと同じ声を聞いたんですの。だから、あれは康夫じゃなかったの。毛利さんだったのよ……と、浄美はさめざめと泣くのでございます。私はぞっといたしました。そして囈語をいっている者にむかって、そんなことをするのは悪いと思ったのですが、では、なぜあなたはそのことを警察の方にいわなかったのと訊いたのでございます。すると、……すると……浄美はさめざめと泣きながら、なぜだかわからないの、叔母さん、なぜだかわからないのよ。……     三  お志保さんは眼鏡を外すと、ハンケチで静かに涙をぬぐった。私は無言のまま深く深く頭を垂れていた。鉄瓶《てつびん》の沸《たぎ》る音だけが、部屋の空気をかきまわしている。 「毛利さん」  お志保さんの声に私がはっと顔をあげると、お志保さんは優しい眼で私の顔を見ながら、 「やっぱりあなたでしたわね。あまり変わっていらっしゃるので、浄美からそういわれても、私には信じられなかったんですのよ。でも、浄美は初めからあなただってこと知っていましたよ。あなたが無意識になさる空咳《からせき》……いえいえ、それを聴く前から、昨日あなたがこの家へお着きになった時から、あれは知っていたのかもしれませんわ。何年も何年もあの人はあなたをお待ちしていたんですもの。いつかきっともう一度、ここへあなたがいらっしゃるって。……そしてあの晩のことをお話しくださるって……毛利さん、話してください。なぜあの晩、あなたはあんなことをなさいましたの。いえいえ、あなたが盗みをなさるような方でないことはよくわかっています。現にあなたが金庫から持ち出されたお金は、あなた御自身から返していただいたんですものね。それならば……それならば、あなたはなぜあのようなことをなさいましたの。ねえそれを聞かせてくださいまし。浄美はそれがわからないために、あのように悩んでおりますのよ。あのように苦しんで、病みほうけておりますのよ」 「お話ししましょう、お志保さん」  私は燃ゆるような眼をあげた。強い、激しい感動で、私の胸は締めつけられ、私の呼吸は詰まりそうであった。 「それを聴いていただくために私はここへ来たのです。浄美さんやあなたにこの話を聴いていただくまでは、戦場にいても私は死にきれなかった」  戦場と聞いてお志保さんがはっとするのを私は構わずに言葉をつづけた。 「それに私にもまだまだ腑《ふ》に落ちぬところがあるのです。いまのあなたのお話で、だいぶはっきりいたしましたが、まだまだわからないところがあるのです。私の話を聴いていただいて、後であなたの御意見をお伺いしたいと思います」  お志保さんのついでくれた茶で喉をうるおすと、しばらく私は呼吸をととのえていたが、やがてあの恐ろしい夜の経験を語りはじめたのである。  まず最初に訂正しておかねばならないのは、いまのお話では、あの晩康夫君が最初に家を出たのは夕食のすぐ後で、それから一時間ほど後にこの私が、ブラウスにベレー帽、マドロスパイプをくわえて出かけたということですが、それは違っているんです。夕食後すぐに家を出たのはこの私でした。そして八時ごろまで洋館で、私の身代わりをつとめていたのは、おそらく康夫君だったのでしょう。そのことはいまお話を聴くまでは私も知らないことでした。  では、康夫君がなぜそんなまねをしたのか、それはたいていわかっていますが、それをお話しするよりも、あの晩の出来事を順序立ててお話しするほうがいいでしょう。  あの日の夕食前のことでした。私は康夫君にこんなことを頼まれたのです。自分は……と、康夫君がいうんです。自分は今ある男に恐喝《きようかつ》されている。そしてその男と今夜の七時半から八時半までの間に、地蔵崩れのところで会う約束になっている、しかし自分が行くと……何かめんどうなことが起こりそうだから、きみ、一つ僕に代わって行ってくれまいか……と。  ところであなたも御存じでしょうが、康夫君が他人に物を頼むときには、妙にねつっこいところがあって、相手にいやといわさない。それに恐喝|云々《うんぬん》のことは、私もうすうす噂《うわさ》を聴いて知っていたので、これは康夫君のいうのももっともだ、本人が行かないほうがいいと思ったから、私は快く引き受けたのです。  すると、康夫君がまたこんなことをいうのです。しかし、毛利君、僕の代わりに行ってくれるのなら、その服装ではいけないよ。相手は前科者のお尋ね者のことだ。他人に見つかることを極端におそれているんだから、ブラウスにベレー帽という姿では、とても向こうが出てこまい。しかし君は外套《がいとう》とソフトを持っているね。あの外套と帽子は僕のとたいへん色合いが似ているし僕と君は背格好もそう違わない。だからあれを着て行ってくれれば、向こうも僕と間違えて、隠れ場所から出て来るだろう。そうすればきみのほうからすかさず、蓑浦《みのうら》に頼まれて来たんだってことを知らせてやればいい。取り引きはしごく簡単なんだ。この紙入れを渡して、その代わり相手から手紙を一通もらってきてくれればいいんだ。しかし、毛利君、僕はこのことをだれにも知られたくないんだ。浄美や叔母さんに無用の心配をさせたくないからね。で、だれにも内緒で、出かける時もひとに見られないようにしてくれないか。  康夫君のこの話には少しも怪しい点はなかった。細かい心遣いもその人の立場とすれば、いちいちもっとものことと思われました。ですから私は少しも疑うところなく、夕食がすむと間もなく、康夫君にいわれたとおりの服装で、こっそりこの家を出ていったんです。  私が地蔵崩れへ着いたのは七時半ちょっと前でした。そして、私が康夫君に代わって取り引きする相手は、七時半から八時半の間に来るというんです。つまり私は一時間ほどそこで待たねばならぬことになっているんですが、ここで私はたいへん大きなへまをやったことに気がつきました。ブラウスのポケットに煙草《たばこ》と煙管《きせる》を忘れてきたことに気がついたんです。およそ煙草をたしなむほどの人ならば、このことはよくわかっていただけると思いますが、煙草なしに人を待つ一時間……それがどんなにつらい、やりきれないものであるか。……  しかし、後から思えば私はこのためにこそ助かったのです。もし私があの時お気に入りのマドロスパイプを持参していたら。暢気《のんき》に月を賞《め》でながら、前後も忘れて放心状態になっていたかもしれません。それが私の癖ですから。ところが、幸か不幸か私はそれを忘れたために、始終いらいらしていなければならなかった。もう来るか、まだか、早く来てくれないかと、その一時間のあいだじゅう、私は神経をとがらせ続けていたために、あのひそやかな足音と、唸《うな》りを切って頭上に落ちてきた最初の一撃を、本能的に聴きわけ、身をもって避けることができたのです。そうして危うく身をかわした私は、中腰のまま振り返ってみて驚きました。あの太いもろ松のステッキを振りかぶって、私の背後に立っていたのは康夫君でした。  何をするんだ! と、私は叫びました。  康夫君はそれに答えず、最初の一撃の失敗を口惜《くや》しがっているのか、ギリギリと奥歯を噛《か》み鳴らしている。  正直なところ私は前から康夫君を好いていなかった。憎むというほどではなくとも、虫の好かぬ人だと思っていた。私はそれをおのれの偏狭のせいだと、かえって自分をたしなめていたんですが、今こそ康夫君の憎むべきゆえんが判然しました。凶悪、残忍、冷酷——それはなんとも名状することのできぬ形相《ぎようそう》なんです。  康夫君はまたステッキを真っ向から振り下ろしました。こんども私はうまく逃げました。と康夫君はむちゃくちゃに打ってかかります。私はとうとう岩鼻まで追いつめられてしまいました。後ろにはあの崖《がけ》、前には康夫君。  蓑浦君、私は絶叫しました。きみは何をするんだ。僕をどうしようというんだ。  殺してやる。殺してやるんだ。  馬鹿、気違い! 僕を殺してどうするんだ。きみは自分のことを考えないのか!  心配するな、貴様を殺してもおれは大丈夫だ。大丈夫なようにしてあるんだ。犯人もこさえてある。現場不在証明もこれから作る。  その言葉の終わらぬうちに、康夫君はまたステッキを振り下ろしました。ところがこんども空《くう》を打ったのみならず、弾みでしたたか岩角をたたいたために腕がしびれたのでしょう。あっと叫んで放したステッキが、おあつらえ向きに私の足元に転がってきたんです。とっさに私がそれを拾いあげるのと康夫君が猛然と拳《こぶし》を固めて突っかかってくるのといっしょでした。私は危うく体をひらくと、発矢《はつし》! 夢中で康夫君の真っ向からステッキを振り下ろしたのです。  康夫君はあの岩鼻で、うっちゃりを試みる力士のように、体を反らして両手で虚空《こくう》を引っかいていましたが、つぎの瞬間、仰向けざまに岩の上から転落していきました。  私はしばらく茫然《ぼうぜん》としてそこに立っていました。自分が何をしたのか、しばらくはわきまえもなかったくらいです。しかし岩の上からのぞいてみて、月の光に康夫君の死骸《しがい》を見ると、急に恐ろしさがこみあげてきました。これはたいへんだと体じゅうが震え出しました。  この時の私の気持ちを説明することはむずかしいが、要するにそれはこういうことになりましょう。  自分がいまやったことは正当防衛である。あの時私がステッキを振り下ろさなかったら、おそらく私のほうが崖から突き落とされていただろう。しかしこのことを余人に納得させることができるだろうか。康夫君は土地でも一流の旦那《だんな》である。それに反して自分は風来坊同様の旅の画工だ。康夫君が私を殺そうなど、私自身にもわからないくらいだから、余人が信用するはずはない。と、すれば今の出来事をありのままに話してよいだろうか。いけない、いけない! 私はなんとかして自分を守らねばならぬ。  そこまで考えてきた時、私がはっと思い出したのは、康夫君がさっきいったあの言葉、犯人はこさえてある。現場不在証明もこれから作る。  いったい探偵小説がひろく読まれるようになって以来、都会の知識人のあいだではアリバイという言葉も常識になってきましたが、こんな田舎《いなか》でそれを聴くというのは非常な驚きでした。と、同時に康夫君の今の襲撃が、一時の発作や狂気のためではなく、計画されたものであることがわかるのです。  畜生! 畜生! 畜生!  私は夢中でつぶやいていました。  その時です。向こうにボストンバッグがおいてあるのに気がつきました。私がさっき来た時にはそんな物はなかったから、康夫君が持ってきたに違いない。私は何かの手掛かりにもと、大急ぎで鞄《かばん》を開いてみましたが、そこであっと驚きました。中から出てきたのは、私のブラウスとベレー帽、コール天のズボンもある。私はあっけにとられた。何が何やらわからなかった。で、ともかくそれを取りのけ、なおも底を探ってみると、日本手ぬぐいが一筋と、古い手帳が一冊、それから懐中電燈が出てきました。その懐中電燈で、手ぬぐいと手帳を調べてみて、私は初めて康夫君の言葉がわかったのです。  手帳は青沼という人の物でした。しかも、その手帳にも手ぬぐいにもべっとりと血がついていて手帳にはごていねいに指紋までついている。私も康夫君の敵が青沼という人物であることは知っていましたから、さては康夫君のつくってある犯人とは、その男なのだと気がついたのです。と、同時にはっと思い出したのは、康夫君が私に勧めたソフトとオーバーという姿。……つまり康夫君は私を殺しておいてその後で、こういうつもりだったのだ。毛利英三は蓑浦康夫と間違えられて、誤って青沼という人物に殺されたのだと。  私は今さらのごとく康夫君の奸悪《かんあく》さに、言いようのない憎悪を感じましたが、と、同時に康夫君のこの計画が、自分にも利用できることに気がついたのです。いや、私よりも康夫君が殺されているほうがはるかに自然ではないか。  これで康夫君の計画のうち、ひとつは解決されましたが、もう一つアリバイの問題がある。康夫君は青沼に罪をきせるだけでは不安だったので、自分のアリバイを用意しておくつもりだったんだろうが、……そうだ、そのために私のブラウスやベレー帽が必要だったのだ。と、私は気がつきました。  探偵小説を読むほどの人間なら、これはだれでも思いつくことなんですが、自分の殺した男が、殺された時間より後まで生きていたように見せかける。それなんです。康夫君はコール天のズボンをはき、ブラウスやベレー帽で家へ帰っていく。そしてちらりと毛利英三の姿を家の者に見せておいてそれからまた出かける。そしてすぐまたその足で蓑浦康夫になって帰っていくのです。御存じのようにここから地蔵崩れまでは、どんなに急いでも二十分はかかるから、毛利英三の後を追いかけるか、あるいは向こうで待っていたとしても、あそこで殺して引き返すには、毛利英三が出かけてから最低四十分はかかるわけです。ですから毛利英三が出かけてから、蓑浦康夫が帰るまでの時間を、四十分より短くすればするほどアリバイは確実になる。そしてこんど家へ帰ってからは、奥さんのそばに終始いて、夜中外出しなかったことを立証すればよいのです。  こういうふうに康夫君の第二の計画を解決すると、私はまたそれを自分に応用できないかと考えてみました。私がそれを利用するためには、まず康夫君になって家へ帰らねばならぬ。それは非常に危険だが、その代わりそれがうまくいけば私は絶対に安全なのだ。  そこまで考え私はさらにこの計画に役立つようなことはあるまいかと、康夫君の倒れているところまで下りていきました。一つにはその時になって初めて、康夫君が真実死んでいるのかどうかと考えたのです。康夫君はやっぱり死んでいましたが、そのポケットを探っているうちに私は康夫君の手帳を発見しました。ひょっとするとこの中に、康夫君の計画のような物が書いてありはしないか、そう思ってページを繰っているうちに、眼についたのがその日の日付の下に書き入れてあった三百円、キ・ヨ・ミという三文字です。  三百円、キ・ヨ・ミ——とたんに私は金庫のことを思いうかべました。三百円というのはその日金庫へおさめた金に違いない。そしてキ・ヨ・ミとは金庫を開く符号なのだ。金庫——金庫——その符号を知る者は康夫君以外にないはずだ。したがって金庫を開き得た者は、康夫君であったということになるだろう。  私は金庫のある部屋の隣りに、浄美さんが寝ていることを知っていた。しかし風邪《かぜ》をひいているから、おそらく彼女は起きてこないだろう。ただ危ないのはあなたでしたが、あなたがいつも九時には自分の部屋へ帰っていくことを知っていました。  ここまでお話しすれば後のことはおわかりでしょう。私は証拠の手ぬぐいや手帳やステッキをほどよいところに配置し、ブラウスやズボンやベレーを鞄《かばん》に詰め込み、この家の裏木戸まで帰ってきたのです。そしてしばらく様子をうかがっていると、うまいぐあいにあなたが自分の部屋へ帰っていくのが見えました。今だ! 私は急いでこの部屋へ跳び込むと、金庫を開き、三百円をつかみ出すと裏木戸から外へ跳び出し、曲がり角の向こうに隠しておいた鞄から、ブラウスやズボンやベレーを取り出して、いつもの自分の姿にかえったのです。御存じのようにあのブラウスやズボンはだぶだぶなので、オーバーもズボンも脱ぎかえる必要はなかった。ただ、上から着ればよかったのです。おそらく康夫君もそうしたのだろうと思いますが、その間二分とはかからなかった。そしてソフトは鞄の中に突っ込み、その鞄を草叢《くさむら》の中に隠しておくと、ブラウスのポケットにあったマドロスパイプをくわえて、ふたたび引き返してきたところで、あの裏木戸であなた方に会ったのです。  さあ、これがあの晩私のやった冒険の全部です。それは非常に際《きわ》どい、危険な芸当で、そういう芸当をやった私を正気の沙汰《さた》かとあなたはお疑いになるでしょう。まったくそのとおりであの晩の私はたしかに常軌を逸していました。しかしふだんの考え方でそういう場合の思考や行動を判断することはできません。ふつうの時には不自然と思われることもその時の私には自然だったのです。それにもう一つには、私は康夫君に負けたくなかった。彼にやれることなら自分もやってみせるぞという競争意識——と、いうよりはむしろ決闘者の心理、それが私にあんなことをやらせたのです。つまり私は康夫君と知的決闘をやったのでした。  お志保さんは桐火桶《きりひおけ》をなでながら、一心に私の話に耳をかたむけていた。そういうお志保さんの様子には、私を非難するような色は微塵《みじん》もみられなかった。その年ごろの日本の女としてはお志保さんは物わかりのよいほうだから、私の話をわかってくれたのかもしれない。  私はふと隣室にかすかな物音を聴いた。それは深い深い溜息《ためいき》だった。何かしら長いこと心の底にわだかまっていたものを、一気に吐き出すような、長い、ふるえを帯びた溜息だった。私は思わず腰をあげかけたが、その時お志保さんが眼をあげて優しく私を制した。 「お話はよくわかりました。しかしその時あなたは青沼という人のことをどうお考えでいらしたの。もしその人が現われて、人殺しのあった時分、ほかの場所にいたことを、証明するようなことがあった場合、あなたはどうなさるおつもりでございましたの」 「むろん、そのことは私も考えました。しかし、あの時の康夫君の自信に満ちた態度から、決してそんな心配は要らないのだと考えたのです。その点私は決闘の相手をよく知っていたのですね。その時すでに青沼という男も殺されているんじゃないかと考えたのですが、今のあなたのお話ですっかりわかりました。康夫君が一ヵ月ぶりで帰ってきたとき、あの晩すでに青沼という男は殺されていたんですね。康夫君はその死体をどこかへ隠しておいた。ところがその後になって私を殺すことに決めた時、この青沼を利用しようと思いついたのでしょう。でもう一度隠しておいた死体を取り出して、おおかた自分の体から血をとったのでしょう。その血を死体の掌になすりつけ、そうして血染めの手ぬぐいや手帳の指紋を作ったのだろうと思います。こうすることによって康夫君は一石二鳥の効果をあげることができる。第一は青沼という男がいかに無頼漢でもそれきり姿を隠すとすれば、世間の疑惑を招くおそれがある。しかしそいつが人殺しをやったとすれば、極力身を隠そうとするのは当然のことですから、それきり失踪《しつそう》したとしても、それほど怪しまれる心配はない。つまり私は青沼という男の失踪を、理由づけるための道具に使われようとしたのですが、ただわからないのは、それだけの理由で、康夫君は私を殺そうとしたのだろうか。私にはどうもそうは思えないのです。それもあったろうがそれとは別に、康夫君は私を殺さねばならぬ理由があったのではなかろうか。あの時の康夫君の物すごい形相、私に対するはげしい憎悪——それが私には合点がいかないのです」 「あなたにはそれがおわかりになりませんの」  お志保さんの声の調子に、私はぎょっとして顔を見た。お志保さんは優しい、慰めるような眼で私を見守りながら、 「康夫さんがあなたを憎み、あなたを殺そうとまでしたのは、あの肖像画を見たからですよ」  私は探るようにお志保さんの顔を見つめる。私にはお志保さんの言葉の意味がよくわからなかった。お志保さんはかすかに溜息をすると、 「あなたはあの肖像に、浄美の靨《えくぼ》をおうつしになりましたわね。あの靨はめったに人の見ることのないものです。浄美は楽しい時には微笑《ほほえ》みます。うれしい時には笑います。しかし、ふつうの楽しみや喜びでは、浄美の頬にあの靨は現われないのです。それは心の底からのうれしさ喜ばしさ、深い深い愛情が胸のうちに湧き上がる時、初めて浄美の頬にあの靨が現われます。それは浄美の口にこそ出さね、胸に秘めた愛の索引も同じことなんです。それをあなたはおうつしになった。何も御存じなく……しかし、康夫さんはそのことをよく知っていたのです。それだから……それだから、あの人は嫉妬《しつと》に狂ってしまったのです」  しかし私はお志保さんの言葉を終わりまで聴いてはいなかった。私は卒然として立ち上がった。私の体ははげしく震えた。知らなかったのだ。私はその索引を読むことができなかったのだ。  お志保さんは下から私の顔を振り仰いだが、その眼にはいささかも私を非難するような色はなかった。かえってその眼は優しく私をはげましている。  私は震える指であいの襖《ふすま》を押し開いた。と、見れば白い枕に頬を横たえた浄美さんの大きな瞳《ひとみ》が……やつれて、落ちくぼんだがためにいっそう大きく見える瞳が、なにかを訴えるように私を迎えている。強い磁石に吸いよせられるように、私はつとその枕もとにひざまずいて、痩《や》せ細った浄美さんの手をとった。私も変わったが浄美さんも変わった。互いに変わり果てた面影を見守りながら、私たちは長いこと無言のまま眼を見交わしていた。何もいうことはできなかったし、またいう必要もなかったのだ。やがて浄美さんの瞳には霧のように涙が湧き出《い》で、浄美さんの唇《くちびる》ははげしく震えた。  だが……だが……その時私は見たのである。蝋《ろう》のように白く血の気を失った浄美さんの双頬《そうきよう》に、ごくかすかなくぼみが現われたかと思うと、しだいにそれが深い靨となって刻まれていくのを。…… [#改ページ] [#見出し]  刺青《いれずみ》された男     一  確かに一風変わった看板には違いない。縦四尺、横五尺ぐらいの白塗りのトタン板に、黒ペンキの線描《せんが》きで、さまざまな物のかたちが描いてある。  まず中央には帆にいっぱい風をはらんだ三本マストのスクーナー船、それを取り巻いて、人魚《にんぎよ》や、黒ん坊の顔や、西洋美人や、錨《いかり》や、椰子《やし》の木や、カンガルーや、トランプのハートの女王や……等々々、そしてさらにそれら全体を取り囲んで、鎖つなぎの枠《わく》を作っているのは、色とりどりの世界の国旗。  民国十五、六年ごろの上海《シヤンハイ》の、船着場に近い、とある横町にかかっていた看板である。  その看板の前に立っている彼は船乗りであった。一目《ひとめ》で東洋人と知れる皮膚の色をしていた。だが東洋人としては珍しくみごとな体躯《たいく》を持っていて、六尺豊かな身長は堂々たるものだった。手なども野球のグローブをはめたように大きかった。男ぶりも悪くなく、毒気のない、開けっ放しな笑顔《えがお》は船着場の女どもにずいぶん騒がれそうな魅力を持っている。  彼はひどく酔っている。ひょろひょろしながら看板の絵を見ている。絵を見てしまうとこんどは看板の下に書いてある横文字に、ちかぢかと顔を寄せた。 [#挿絵(fig1.jpg、横119×縦321、上寄せ)] 「刺青《いれずみ》師 張《チヤン》先生か」  ふうっと酒臭い息を吐くと、彼は陽気な笑い声をあげた。それからなんの躊躇《ちゆうちよ》もなく、穴蔵のように狭い暗い入り口の中へ、ひょろひょろとのめり込んでいった。  刺青師|張《チヤン》先生のアトリエはその建物の二階にある。狭い、暗い、陰気な一室で、汚点だらけの黄色い壁には刺青をした男女の裸体写真が一面に張りつけてある。西洋人、中国人、日本人、——種々雑多な人間の、種々雑多な刺青をした写真が、雨気をはらんだ薄暗い部屋に、一種異様な妖気《ようき》を添えている。  窓のそばに粗末なベッド。ベッドのそばに書き物机。その机に向かって小柄な男が、背中を丸くして何やら熱心に書いている。その男。刺青師の張《チヤン》はふと顔をあげると、ペンを持ったまま入り口を振り返った。入ってきたのは彼である。 「い——刺青師の張というのは——おまえさんかい」  呂律《ろれつ》は多少怪しかったがりっぱな日本語だった。  張《チヤン》は眼動《まじろ》ぎもせずにその男の顔をみつめている。椅子《いす》の横木をつかんだ指には、爪《つめ》の跡が残るほど力がこもっている。小鼻をふくらして二、三度大きく息を吸いこんだ。やがて——気がついたようにペンをおくと、大きな鉄縁の眼鏡をかけ、おもむろに榻《こしかけ》から立ち上がった。  張《チヤン》の背は五尺そこそこしかない。黄色い、ひからびたような顔をした男で、帽子の下から蜻蛉《とんぼ》の尻尾《しつぽ》ほどの短い辮髪《べんぱつ》を垂れている。 「おいでなさい。刺青をなさるんですな」 「おや——大将、日本語ができるんだね」 「私、長いこと日本にいました。日本で刺青、勉強しました。日本の刺青、世界一すばらしい」  そういいながら張《チヤン》の眼は、注意深く相手の表情を読んでいる。しかし泥酔《でいすい》した彼は気がつかぬらしく、なんの反応も示さない。 「おっとどっこい。刺青の世界一か、大して自慢にもならねえな。はっはっはっ」  船乗りはベッドの端にどしんと腰を落とすと、油臭い上衣とシャツを脱ぎ捨てた。 「さ、大将、この胸へ刺青してくれ」 「胸——? 胸、刺青しますか。日本人、たいてい、背中、刺青する」 「だからおれァ胸へするのよ。背中へ児雷也《じらいや》や滝夜叉《たきやしや》を背負っているのも気が利かねえ。船乗りは船乗りらしく、ここへ別嬪《べつぴん》の顔を彫ってくれ。うんとかわいい奴《やつ》をな」 「別嬪さん、よろしい。お国の別嬪さん、なかなかきれい。娘さん? 芸者さん?」 「いや、支那《しな》の別嬪さんにしてもらおう。髪を前に垂らした奴でな。かわいいんだ。名は梨英《りえい》——」 「梨英——?」  張《チヤン》の瞳《ひとみ》がまた怪しく光ったが、泥酔している船乗りは気がつかない。 「梨英——そうよ。かわいい奴なんだ。悪魔みたいにすごい奴よ。だいぶ前に死んじゃったがな。あっはっは」  張《チヤン》は戸棚《とだな》を開いて、針だの絵の具だのを取り出した。針は紫檀《したん》だの象牙《ぞうげ》だのの柄の先端に、絹針よりも細いのが、三本から多いのになると三十本ぐらいも取りつけてある。ボカシ彫りに使うのはさらにそれより多くて、歯ブラシみたいな格好をしている。  張がさっき日本で刺青の勉強をしてきたといったのは嘘《うそ》ではなかったらしい。それらの道具は日本の有名な刺青師、彫兼だの彫宇之だのという人たちが使うものとほとんど変わらない。  張《チヤン》は針をアルコールでいちいちていねいにふきながら、おりおり偸視《ぬすみみ》るように船乗りのほうを見ていたが、やがて前の戸棚からウイスキーの瓶《びん》と二つのグラスを取り出した。グラスにウイスキーをなみなみと注ぐと、張はまた、ちらと船乗りのほうへ眼をやった。  船乗りはぼんやり窓の外をながめている。と——張《チヤン》の手がすばやく動いて、グラスの一つに白い粉末が投げこまれた。粉末はすぐ琥珀《こはく》色の液体のなかに溶けていく。張は両手にグラスを持って、船乗りのそばへやってきた。 「おあがり」  船乗りはびっくりしたように眼をあげて張の顔を見る。 「ウイスキー。これ、飲む、よろしい。針の痛さ、わからない。おあがり」 「こいつは気が利いてる」  船乗りは眼を細めて一息に飲み干すと、手の甲で口のまわりをふきながらからから笑った。張はちょっとグラスの端に唇《くちびる》をつけただけで、すぐ机の上に押しやった。 「さあ、やりましょう。横になりなさい」  船乗りはごろりとベッドに仰向けになる。張は彼の広い胸をアルコールでふきながら、船乗りの顔を見ている。天井で青蠅《あおばえ》がものうい羽音を立てている。  あーあ、と船乗りが大きな欠伸《あくび》をした。 「おれァ……なんだか……眠くなっちゃった」 「寝なさい。寝なさい。寝てると針の味わからない。刺青《いれずみ》、できたら起こしてあげる」 「う、うんそうか。そうしてもらおうか……」  船乗りはもう眠っていた。  張は立って窓の鎧戸《よろいど》をしめる。それから小机を引きよせると、その上に墨だの朱だの紅殻《べにがら》だのを並べる。その間始終薄笑いをうかべている。こうして用意ができると、張は針をとってベッドのそばにうずくまり船乗りの胸に刺青を彫りはじめた。傍目《わきめ》もふらずに彫り出した。  天井では青蠅がブーンブーンとものうい羽音を立てている。……  それからどのくらいたったか。——  船乗りはポッカリ眼を開くと大きな嚔《くしやみ》をした。あたりは真暗で、どこかでぴたりぴたりと波の寄せるような音がする。それはいいが、仰向けになった顔といわず体といわず冷たい水滴がいちめんに降り注いでくるのがたまらない。  船乗りはまた嚔をした。起き直ってきょとんとあたりを見回す。真っ暗な底から、ちゃぷんちゃぷんと波の音。冷たい雨。だしぬけにボーッと霧笛《むてき》が耳をつんざいた。  船乗りはそれではじめて気がついた。彼は波止場《はとば》の突端《とつぱな》に寝ていたのである。  船乗りはブツブツ言いながら立った。どうしてこんなところに寝ていたのかわからない。向こうに灯が見えるので、ともかくもと歩き出す。と、ふと彼は胸の痛みに気がついた。しかもその痛みは、気がつくと同時にそこらじゅうにひろがって、何百何千という針でつつき回されるような感じである。  ふいに彼は刺青《いれずみ》師のアトリエを思い出した。眠る前に飲んだウイスキーの味を思い出した。いまから思うとあのウイスキーは苦かったような気がする。彼はあわててポケットを探った。何もなくなっている物はない。第一、あの時脱いだ上衣やシャツもちゃんと着ている。  だんだん彼は明るいほうへやってきた。それほど遅い時刻ではないらしく、電気蓄音機が騒々しく鳴っている。彼は明るいカフェーの前に出た。そのカフェーの前で彼はふと足をとめる。飲み物や食べ物を飾った飾り窓の奥に、大きな鏡が光っている。  船乗りはその飾り窓の前に近寄ってあたりを見回した。カフェーの中からは蓄音機の音や、酔っぱらいの濁声《だみごえ》が騒々しく聞こえてくるが、表の通りには人影もない。船乗りは手早くシャツのボタンを外して胸を開いた。明るい鏡の中に赤くただれた胸が映る。  数秒——数十秒——彼は眼動《まじろ》ぎもしないで鏡の中の自分の胸を凝視している。突然、彼の唇がわなわなと震えた。  喉《のど》までこみ上げてくる恐怖と驚愕《きようがく》の叫びを噛《か》み殺して、彼はあわててシャツのボタンをかけた。なおその上から上衣の襟《えり》をかき合わせて、きょろきょろあたりを見回した。  どどどどどーと百雷の炸裂《さくれつ》するような音が耳の奥で鳴っている。船乗りは夢中になって雨の波止場を駆け出した。  刺青師の張《チヤン》がアトリエの中で縊《くび》り殺されているのが発見されたのは、それから三日目のことである。犯人はついにわからずじまいだったが、細い、しなびた張の喉に残っていたのは、恐ろしく大きな指の痕《あと》だった。  昭和初年ごろの上海《シヤンハイ》での出来事である。     二  私がその男の存在を知ったのは、あと数時間で船がシンガポールへ入るという、印度《インド》洋でのことである。  暑気の無聊《ぶりよう》に苦しめられながら、医務室でくだらない三文《さんもん》小説を読んでいると、五、六人の水夫ががやがや口々にののしりながら、一人の怪我《けが》人を担ぎ込んできた。怪我人は同じ水夫の津田という男である。私は前からこの津田という男を知っているが、彼にはゴリラという綽名《あだな》があって、仲間からはゲジゲジのようにきらわれている男である。  ゴリラとはよくつけたもので、実際彼の様子はあの獰猛《どうもう》な動物にそっくりであった。腰よりも肩の幅のほうが広くて手がむやみに長い。ビリケンのようにとがった頭はつるつるに禿《は》げて、眼は落ちくぼんでいる。いわゆる金壷眼《かなつぼまなこ》というやつである。鼻がへしゃげて口が大きい。おまけに出っ歯である。そして恐ろしく毛深い体質である。  こいつがズボン一つの半裸姿で、ノッシノッシと甲板を歩いているところは全くゴリラそっくりである。おまけにゴリラのように腕っ節が強くて、なにかというとそれを振り回すのだから始末が悪い。  そのゴリラが怪我をして担ぎ込まれたのである。しかもこれが過《あやま》って滑ったの転んだのという怪我でないことは一目《ひとめ》見ればわかる。片眼がたたきつぶされている。前歯が二本折れている。鼻翼が裂けて鼻血が泡《あわ》のように吹き出している。体じゅうが斑《まだら》になって気息|奄々《えんえん》としているのである。私は思わず吹き出さずにはいられなかった。 「どうした。喧嘩《けんか》か、相手はだれだ」 「相手はマルセーユから乗り込んだ新入りですがね、いや強いのなんのって、津田の奴すっかり手玉にとられやがった」 「畜生——野郎——来い——」  ゴリラは弱々しい声で呻《うめ》くと、ぺっと血の混じった痰《たん》を吐いた。 「津田をこれだけにやっつけるところを見ると、よっぽど強い奴なんだね。で、相手はどうした。そいつも相当やられてるだろう」 「ところが向こうさんは損傷《かすりきず》ひとつ受けてやしねえ。なんしろゴリラをそばへ寄せつけねえんですからな。津田の奴、まるで破れ雑巾《ぞうきん》みたいに振り回されやがった」 「ほほう、上には上があるもんだね。しかし津田もこれで少しは眼が覚めるだろう。おっと、だれかここへ来て津田の頭をおさえていてくれ。よしよし。全く津田ものさばり過ぎたからな。例によって津田のほうから喧嘩《けんか》を吹っかけたんだろう」 「いえ、ところがこんどはさすがのゴリラもだいぶ躊躇《ちゆうちよ》していたんです。なんしろ相手があんまりみごとな体をしている。それに態度なども妙に他人《ひと》を屈服させる力を持っている。ゴリラもこんどは勝手がちがって、一目《いちもく》おいてやァがったんですよ」 「それがまたなぜ喧嘩になったんだ」 「亀田《かめだ》の奴が悪いんですよ。亀田が嗾《け》しかけやがったんだ」 「冗談いうない。嗾しかけたのは俺じゃねえや。白石じゃねえか。白石が変なことを言い出すもんだから……」 「おれがいつ変なことをいった」 「だっててめえじゃねえか。『シャツを脱がねえ男』っていうのはあいつじゃなかろうかって……」 「それはおれじゃねえ。いちばん初めにそれを言い出したのは松山なんだ。なあ、松山、おまえが……」 「おい、みんなちょっと黙っていてくれ。津田、どうした、苦しいのか。だれか津田の体を支えていてくれ。静かにやれよ、おっとと……」  津田はまた泡のような血を吐いた。それを見ると水夫たちもしいんとして顔を見合わせた。 「先生、津田は悪いんですか……」 「ふむ、どうも肋骨《ろつこつ》が折れているらしい。こいつが肺にささっていると……津田、どうだ気分は……いいか。なあに、大丈夫だ。もともと頑丈《がんじよう》な体なんだからな。で、なんだい、その『シャツを脱がぬ男』というのは……?」 「へえ……先生は御存じじゃありませんか」 「何を?」 「何をって『シャツを脱がぬ男』の話でさ」 「だからそれはどういうことなんだ」 「じゃ、先生は御存じねえんですね。なにね、こちとら仲間にゃ有名なもんです。だが、この話なら松山がいちばん詳しい。松山、てめえお話をしろ。おまえがいちばん弁が達者だ」 「おだてるない」 「松山、なんだい。その『シャツを脱がぬ男』というのは……」 「先生、それはこうなんです。あっしら仲間の水夫のなかにひとり絶対にシャツを脱がねえ男がいるんです。あっしらまだ一度もそいつに会ったことはねえが。船着場なんかでほかの船の仲間と一杯《いつぺえ》やる時、よくそいつの噂《うわさ》が出るんです。不思議なんですね。とにかく決してシャツを脱がねえてんですから。印度《インド》洋や南アフリカのシャツはおろか自分の皮まで脱いでしまいたくなるような場所へ行っても、そいつだけは決してシャツを脱がねえ。でまあいろんなことをいうんです。体に傷があるんだとか腫物《おでき》があるんだとか、中にゃ人に見せられねえ刺青《いれずみ》をしているんだとか……しかし先生も御存じのとおり、あっしら水夫という奴は、きまり悪がるというふうじゃねえ。腫物があろうが傷があろうが、そんなことを恥ずかしがる奴は一人もねえ。刺青ならだれだってやってまさあ。だから不思議なんです。いったい、そのシャツの下に何を隠してるんだろうって……ね。ところでそういう噂をする奴も、自分で直接《じか》にそいつに会ったのはほとんどねえ。たいていは噂のまた聞きのまた、また聞きくらいなんです。だからそいつの名前などもまちまちで、人格風体なども西洋人みてえに巨《でか》い奴だというのもあるし、そうかと思うと、色の生っ白《ちろ》い女みたいな野郎だという奴もある。つまりよくわからないんです。というのはそいつはめったに日本船に乗らねえ。いつでも外国船に乗り込んでいるんで、しぜんこちとらと顔を合わせることはねえんですね。ところがこんどマルセーユから乗り込んだ男、芳賀《はが》という人ですがね。こいつがどうもそれじゃねえかと……なに、はじめはだれも、夢にもそんなこと思ってやあしなかったんですが、スエズからこっちへ来るにしたがって怪しくなった。印度洋のこの熱さにも、野郎ちゃんとシャツを着ている。で、だれが言い出したか、あいつがあれじゃねえか、『シャツを脱がねえ男』じゃねえか……と先生、そうなると相当|気味《きみ》が悪いもんですぜ。なんだか、ねえ、こう、いやあな気持ちなんです。みんなそういうんです。で、みんなで相談して、とうとう津田を嗾《け》しかけたんです。つまり津田に喧嘩《けんか》を吹っかけさせて、奴《やつこ》さんのシャツをひっぺがして、ひとつ体を見てやろうじゃねえかと……おや、先生、どうかしましたか。津田が……」  津田はまた泡《あぶく》のような血を吐くと、苦しそうにベッドの上をのたうちまわった。 「津田、どうした。しっかりしろ」  しかし津田の顔色はしだいに紫がかってくる。瞳《ひとみ》が急に気味悪く吊《つ》り上がった。あわてて聴診器を胸に当ててみると、呼吸音がすっかり変わって、ヒューヒューと壊れた笛みたいな音を立てている。しかもそれさえもしだいに弱くなっていく。私の顔色をみて水夫たちもあわてて津田の枕元《まくらもと》に集まってきた。 「津田、どうした、だらしがねえぞ」 「しっかりしろ。こんなことでまいっちゃ、ゴリラの沽券《こけん》にかかわるぞ」 「先生、津田は……」  私は聴診器を耳から外すとかすかに首を振った。 「だれか船長を呼んでこい。それから……なんとか言ったな。芳賀か。『シャツを脱がぬ男』だ。そいつを逃がさぬように……津田にもしものことがあると……」  水夫たちは唾《つば》を飲んで顔見合わせた。それから二、三人顔色変えて医務室をとび出した。  津田はその晩死んだ。しかし芳賀の姿は船のどこにも発見されなかった。芳賀といっしょにボートが一|艘《そう》なくなっていることが発見されたのはその翌朝のことである。  シャツを脱がぬ男のシャツの下に、いったい何が隠されていたのか、私は渇した者が水を求めるように、その秘密を求めたのだが……  昭和六年ごろの私が船医をしていた時分のことである。     三  昭和十七年の夏、私は南洋のある島にいた。私がその島にいたのはむろん戦争のためである。しかし私はこんどの戦争については語りたくないし、また戦争はこの物語になんの関係もないことである。また、島の名もある理由からここに明かすことを差し控えたいと思う。これまたこの物語にさして重要な役目を持っているとは思えないからである。  その九月に私はある任務のために、部隊をはなれて百数十里向こうの地点へ行かなければならなくなった。一行は私のほかに若い将校が一人、下士官が二人、兵が二人、それから報道班員と通訳が一人ずつついている。  これからお話しする出来事は、この旅行の途中で遭遇した事件なのである。  部隊を出発してから数日の後、私たちは大きなジャングルの周辺にある、インドネシアの部落に分宿した。そこは島でもかなりの奥地で、戦争でもなければ、めったに日本人などの足を踏み入れるところではなかった。  その晩私とともにインドネシアの小屋に泊まったのは、若い報道班員と通訳のK君だった。ところがもう真夜中に近いころのことである。昼の疲れで私がとろとろしていると、小屋の入り口でしきりに何か言いあっている声がする。一人は通訳のK君らしかったが、聞くともなしに聞いていると、病人だの医者だのという言葉が混じる。むろん話はインドネシアの言葉でなされているのだが、その程度の言葉なら私にもわかったのである。  私は起き上がって小屋を出た。見るとK君をつかまえて、しきりに何か訴えているのは、まだ十三、四のインドネシアの少年だった。 「Kさん、どうしたんですか」  K君の話によると、この部落にいま一人の病人がある。聞けばこの一行の中にお医者さんがいるそうだが、一度その病人を診《み》てくれないかと、こうこの少年は訴えているというのである。 「それからこいつ妙なことをいうんです。その病人はわれわれと同じ日本人だというんです。でその日本人がおまえを使いによこしたのかと聞くと、そうじゃない。病人は何も知らない。むしろ私が医者を呼びに来たことがわかると、どんなに叱《しか》られるかわからないとこういうんです。なぜ叱られるのかと訊《き》くと、医者が来ると体を見せなければならない、それがきっと病人はいやなんだろう……と」 「医者に体を見せるのがなぜいやなんですか」 「さあ、それは私にもわかりませんが、訊いてみましょう」  K君はしばらくインドネシアを相手にしゃべっていたが、 「どうもわかりませんねえ。その日本人というのは今まで決してシャツを脱いだことがない。つまり体を見せたことがないというのです。その男はこの少年が赤ん坊の時分からこの土地にいるんですが、絶対にシャツを脱いで体を見せたことがない。こんど重病に取りつかれてからも……」  私はK君の話を皆まで聞かないうちに、小屋へとって返して鞄《かばん》を持ってきた。ごろ寝をしていたので着物を着替える必要はなかったのである。 「さあ、行こう。おまえの主人のところへ案内してくれ」  K君はあっけにとられた。それから急に気がついたように私を制《と》めた。しかし私はK君の言葉を耳にもかけず、インドネシアの少年を急《せ》き立てて案内させた。  その日本人というのは部落から少し離れた小屋に、このインドネシアの少年とただ二人で住んでいるらしい。私がおぼつかない土地の言語を操って、みちみち彼から訊《き》き出したところによると、彼はこの近在では非常に尊敬されているらしい。それというのが彼はたいへん親切である。インドネシアのめんどうをよく見る。しかし怒ると実に怖い。第一非常に強くて、この近在で彼に立ち向かうことができる者は一人もない。しかし怒って腕力を振るうようなことはめったになく、ずっと以前に自分はただ一回見ただけである。その時彼はたった一撃でインドネシアをたたき殺した。殺された男はこの近在でも鼻つまみの、性質の悪い奴だったので、みんなかえって喜んだ。そしていっそう彼を尊敬した。彼は一人である。女房も子供もない。……  少年の話を聞いているうちに私はいよいよ確信を強めた。あの男なのだ。十年以前、一|葉《よう》の小舟に身を託して印度洋の波間に消えていった男、絶対にシャツを脱がぬ男。——いまこの異郷の空で、図らずもその消息を耳にした私は、いまさら厳粛な運命の導きに、全身に総毛立つような緊張を覚えた。  だが私は警戒しなければならなかった。私はその男の並み並みならぬ腕力を知っているし、彼があのシャツの下に秘められた秘密を守るためには、どんな暴力の発揮もいとわぬことも知っている。どうして彼にシャツを脱がせようか。いや、どうして彼に知られずに、シャツの下を見ようか。……  だが、さすがに強い彼の意志も、運命の前には抗しかねたのだ。私が彼の小屋へ着いた時、彼は昏睡《こんすい》状態におちていた。ほの暗い獣油の光でその顔を見た時、私は果たしてその男が、彼であるかどうか見極めがつかなかった。みちみちインドネシアの少年から容体を聞いて、おそらくそれは喉頭癌《こうとうがん》であろうと推断していたが、その推察に誤りはなかったらしい。人類に対する最も残虐な呵責《かしやく》であるこの病気は、彼の体内から昔日のエネルギーを奪い尽くしたらしい。その時の彼の形容は枯痩《こそう》の一語に尽きていた。  しばらく私は彼の寝息をうかがっていたが、やがて思い切ってシャツの裾《すそ》をまくり上げた。シャツの下には彼はまだ白い晒布《さらし》を巻いていた。手術用の鋏《はさみ》で私はその晒布《さらし》を断ち切った。そしてそして私は見たのである。  それは私が予想したとおり刺青《いれずみ》だった。しかもその刺青がどのように彼を悩まし苦しめたか、それは何度も何度も焼き消そうと試みたらしい。惨憺《さんたん》たる努力の跡を示すごとき、無残な皮膚の変色によってもわかるのである。しかもあらゆる努力にもかかわらず、その刺青は依然として、彼の皮肉に食い入りその原形を保っている。あたかも張《チヤン》の執念を示すように……  ふいにかすかな鼻息が聞こえたので、私ははっと顔をあげた。彼は眼を開いて、じっと私の顔をみつめていた。私はあわててその刺青を隠すと、鞄《かばん》から聴診器を取り出した。私の今の所業が底意あるものではなかったことを示すために。……だが、ほんとうのことをいうと、実はそこに深い底意があったのだが。  彼は手を振って私の診察を拒んだ。そして弱いゴロゴロするような声でいった。 「先生、御覧になりましたね。私の刺青を……いいえ、お隠しにならんでもいいんです。どうせ私の体は長いことじゃない。それにこんな戦争じゃ、私を日本へ連れて帰ることもできませんからな。は、は、は、は」  彼は弱い、力のない声で笑って、 「先生、お話ししましょうか、この刺青の子細《わけ》を……死ぬ前に一度だれかに聴いてもらいたいと思っていたんです。今夜は幸い馬鹿に気分がいい。いよいよ死期が近づいたんですな」  彼はすごい微笑をうかべると、それからにわかに起きると言い出した。私が手伝って、できるだけ楽によりかかることができるようにしてやると、彼は何度も礼を言った。そして低い、しゃがれた、苦しそうな声で話し出したのである。以下掲げるのはその時彼の話した物語である。この打ち明け話をした数日後、彼は苦悩に満ちた生涯《しようがい》を閉じたということだ。  大正十二年の夏から秋へかけて、私は神戸の下等な船員宿にごろごろしていました。  その前の航海で私は誤って船橋《ブリツジ》から落ちて、脚をくじいていたので、そこに置き去りにされたわけです。幸い怪我《けが》は思ったよりも軽くて、間もなく起き出せるようになりました。もっとも多少|跛《びつこ》は引いてましたが。……  その時分私はまだ若かったし、無聊《ぶりよう》に苦しめられていましたし、しぜん起きられるようになると毎晩遊びに出かけることになります。どうせ私ども下等な船乗りを慰めてくれるものといったら、酒と女と昔から相場が決まってます。私の足の向くのもやっぱりその方角で、そのころ、毎日私が出かけていったのは、三の宮の近くにあるトロカデロという酒場です。  ここは酒場というより船乗り相手の地獄宿みたいなところで、五、六人の女がいる。みんな日本人ですが、その中にただ一人中国人の娘がいました。それが梨英《りえい》です。この梨英というのは、まあ、言ってみればフリーランサーみたいな奴《やつ》で、そこに住み込んでいるんじゃなくて、別に家を持っていて、毎晩夕方ごろになるとそこへ出張してくるんです。そして酒の相手をしたり、ダンスのお相手を勤めたり——ええ、そこにはちょっとしたホールもあって、踊れるようにもなっていたんです——そして、十二時になるとさっさと帰っていく。  私はその梨英に惚《ほ》れたんです。お恥ずかしい話だが全く夢中になっちまったんです。美人というほうじゃない。しかしなにしろすごい奴で、娘というよりは腕白小僧といった感じなんです。体なんどもその年ごろの日本娘のようにぶよぶよしていない。きりりと引きしまっていて、そして弾力がある。色は浅黒いほうです。  そういう奴が翡翠《ひすい》の耳飾りかなんかして、蝉《せみ》の羽根のような薄いきらきらする支那《しな》服を着て、しかも唇《くちびる》をついて出る言葉といえば変に流暢《りゆうちよう》な日本語、それも江戸弁で啖呵《たんか》を切るんです。ええ、日本語は実に上手で、その代わり肝心の支那語はから駄目《だめ》。私は全くこの梨英には悩まされました。だらしない話ですが足元に跪《ひざま》ずいて泣いたこともあります。ところが梨英の私に対する気持ちというのが、どうしても捕捉《ほそく》できない。うぬぼれじゃないがたしかに私をきらっちゃいない。触れなば落ちんという態度を見せる。それでいて最後のところまで行くと、突っぱねてしまうんです。  私は何度も梨英の家へ押しかけていきました。梨英はそのころ生田神社の裏の、安っぽい洋館の二階に、呉《ウー》という中年者の男と二人で住んでいました。この呉というのはちんちくりんの、痩《や》せっこけた、風采《ふうさい》の上がらぬ男でしたが、梨英の話によると親の代から彼女一家に仕えているという。私はしかし呉など眼中になかった。それに私が行くといつも呉は座を外して、なるべく姿を見せぬようにしているので、勢い顔を合わせる機会も少なかったわけです。  私が遊びに行くと梨英はいくらでも酒を飲ませる。その時分私は嚢中《のうちゆう》しだいに淋《さび》しくなっていたんですが、そんなことにはお構いなしに実に気前よく飲ませる。で、結局、私は盛りつぶされて、なんのために梨英の家まで押しかけていったのか、割り切れない心持ちで帰ってくる、と、こういう、お預けをされた犬みたいな、いらいらした、やり切れない交渉が一月ほども続きましたろうか、それが突然変わったものになったというのは……  それは八月も終わりに近い、むんむんするように暑い晩のことでした。十二時過ぎになって梨英の家へ押しかけていくと、梨英は私を待っていた、さあ、すぐ出かけようという。見ると驚きました、梨英の奴洋服に鳥打帽という男装。それがまたよく似合う。元来がきりりと引きしまった、娘というより少年といった感じの体格ですから。  なんにもいわないでよ、私のいうとおりにしてちょうだい、その代わり今夜はきっとおもしろく遊んであげる。さあ、これを持ってついてきてちょうだい。梨英が私に持たせたのは黒い皮のボストンバッグ、こいつが馬鹿に重い。何が入っているのかと訊《き》いても梨英は笑って取り合わない。どこへ行く、何をしに行く、もしそんなことをうるさく訊こうものなら旋毛《つむじ》を曲げてしまうに決まっている。黙って私のいうとおりにしてちょうだい。そういう言葉に従って、犬のようについていくより仕方がなかったんです。今夜はおもしろく遊んであげる。さっき言った梨英の言葉に胸をわくわくさせながら。  梨英が私を引っ張っていったのは、山の手にある異人屋敷でした。梨英の話すところによると、この異人館の主人は目下六甲の別荘へ避暑に行っていて、家は空っぽである。しかし自分はその主人と懇意で、留守中自由にその屋敷を使ってもいいという許可を得ている。だから今夜はこの家でおもしろく遊ぼう。  だが、その遊びというのが……手っ取り早く言ってしまいましょう。それは結局強盗なんです。驚いたことに、私の提げてきたボストンバッグには重いも道理泥棒の七つ道具が入っている。梨英はそいつを器用に使って、扉《とびら》でも窓でも造作《ぞうさ》なく開ける。そして最後には金庫まで。……  梨英はしかしいうんです。自分はここの主人と懇意だから、何もそんなにビクビクすることはない。ただちょっと悪戯《いたずら》をしてびっくりさせてやるだけなんだから。さあ、そう震えずにしっかり懐中電燈を持っててちょうだい。だがこれが震えずにいられますか。ビクビクせずにいられますか。梨英は私を意気地なしだの、見かけ倒しだの、独活《うど》の大木だのと、舌をふるって罵倒《ばとう》する。罵倒しながら一心不乱に錐《きり》を使って金庫に孔をあけている。  だが正直いって、その時ほどの美しい梨英を私はまだ見たことがない。少し汗ばんで、唇を噛《か》んで、きっと錐の先端に瞳《ひとみ》をすえている、その息苦しいほど緊張した梨英の顔。すごいような真剣さ。金庫は間もなく開きましたが、しかし梨英の予期したほどの財物は得られなかったらしい。ちょっ、あの嘘《うそ》つき爺《じじ》いめ。自分の金庫には金貨だの宝石だの山ほどあるといっていたが、なんだい、これっぽっちの紙幣束と時計と指輪。梨英はそれでもそれらの物を持ってきた袋に詰めました。それから私のほうを振り向いてにやっと微笑《わら》いました。  お馬鹿さんね。何をそんなに震えているの。いいわ、さあ、性根《しようね》を入れてあげる。私の持っていた懐中電燈をたたき落とすと、梨英はいきなり私の首っ玉にかじりついてきました。閉めきった、人気《ひとけ》のない、むんむんするほど蒸せっぽい、夏の夜の空屋敷の中でのこと。……  私は突如、絢爛《けんらん》たるお花畑へ連れ出された心地です。そこには眼を奪うような色彩と、魂をしびらすような芳香がある。しかしそれと同時に人を堕落へ誘い込む囮《おとり》もある。ちょうどあの美しい罌粟《けし》から麻薬がとれるように。私はもう梨英の言葉を信じない。いや、あまりもっともらしからぬ弁解など、最初から信じていなかった。第一、新聞がちゃんと書いているんです。昨夜山の手の異人館に二人組の強盗が忍び込んで、金庫を破って逃走した。足跡から判断すると、一人は小柄の人物、他の一人は大男で、大男のほうは跛《びつこ》である。だが、私はその新聞を突きつけて、梨英を詰問しようなどとは思わなかった。それよりも私の心はもっと別のことに奪われているんです。あの冒険の後に突如やってきた激しい嵐《あらし》、気違いじみた、獣のような歓楽の思い出。  だが、その後梨英はまた私から遠退《とおの》いてしまいました。誘うような、焦《じ》らすような、人を生《なま》殺しにするような以前の梨英、そこを踏み越えて、もう一度あの歓楽をむさぼり食うには、同じような冒険をやるよりほかに手段はない。そこで私はやりました。二度三度、私はもう震えない。錠を破ることも、金庫に孔をあけることも、自ら先に立ってやりました。梨英の歓心を買うためなら、どんなことでもやってのけたんです。  新聞がしだいに騒ぎはじめました。異人館専門の二人組強盗。——不思議にも梨英の選ぶ家はいつも異人館なので——そんな記事が毎日のように新聞に出る。むろん私はそれらの記事を、いつも注意して読みますが、そのうちに不思議な事実を発見しました。それはこうです、船に乗っていた私は知らなかったのですが、その年の春ごろから夏のはじめにかけて、やはり同じような二人組強盗が、阪神間の異人館を専門に荒らし回ったらしい。それが一時ぱったりやんだのは、強盗の一人と思われる人物が捕まったからなのです。七月の半ばごろのこと、御影《みかげ》のドイツ人の家に忍び込んだ二人組強盗は、彼らの今までの成功を一挙に帳消しにするような大きなヘマを演じた。留守だと思った主人が家にいて、しかも、強盗の一人に向かって発砲したのです。弾丸はたしかに一人の脚部に命中したが、その時は二人とも逃げてしまった。しかし、それから二、三日後に負傷した奴がとうとう捕まったのです。それは芦屋《あしや》に下宿している学生で、まだ二十三にしかならない青年だったということが、当時非常に世間を騒がせたらしい。その青年は脚部に銃創があり、そのほかにも逃れられない証拠があったのでしょう。とうとう二人組強盗の一人として挙げられ目下未決にいるということでした。  さて、以前横行した二人組強盗と、近ごろまた世間を騒がせはじめた二人組と、全然無関係なものであることは、だれよりも私がよく承知している。しかし二組のこの強盗のやり方には、不思議に一致した点が多かった。ことに近ごろ現われる強盗の一人が、跛《びつこ》を引いているという点が、いっそう、これを同じ人間の連続犯行とみなす説に有力な根拠を与えたのです。一時強盗|沙汰《ざた》のやんでいたのは(その点がかの容疑者なる青年の、有罪説を支持するに強い根拠になっていたのですが)仲間の一人が捕らえられたためではなく、そいつが負傷で動けなかったからなのだ。それが治って、——ただし跛を矯正《きようせい》するまでには至らないが——ふたたび活躍を始めたのが、すなわち最近の頻々《ひんぴん》たる強盗沙汰である。そこで世間の同情はかの青年に集まります。それに警察の挙げていた証拠というのも、それほど有力なものではなかったのかして、間もなくその青年は釈放されることになりました。こうなると、私たちの近ごろの行動は、まるでその青年を救うためにやっていたもののようにみえる。そして、事実またそうであったのです。ああ!  青年が釈放されたという記事が新聞に出てから、二、三日後の夕方のこと私は梨英を訪れた。そんな時刻に私が彼女を訪れたのは今までに一度もないことで、実は不意を襲って彼女を驚かしてやろうと思ったのです。事実は驚かされたのはかえって私のほうでしたが。……扉《とびら》を開くといつも出てくる呉《ウー》の姿もその日は見えなかった。私にはこれが勿怪《もつけ》の幸いで、かんかん西陽の当たるガタピシの階段を、足音を盗んで登っていくと、途中から梨英の声が聞こえる。誰か来ているのかと思わず立ち止まりましたが、すぐ電話をかけているのだとわかりました。こんな時には私ならずとも、立ち聴きしたくなるのが人情でしょう。彼女の部屋は二間続きになっていて、電話は奥の寝室にある。扉を開いて、表の居間へ忍び込む。境の扉は閉っていて、電話の声はその奥から聞こえてくるのですが、そこまで来ると急にはっきりする。それをいっそうよく聞くために、私は扉に耳をつけました。ああ今から思えばあの時あんなまねをしなければよかったものを!  だって、だってそうしなければ……と、梨英の声は涙ぐんで躍起になっている。私は今までこんな神妙な梨英の声を聞いたことがない。で、いっそう扉に耳を押しつける。そうしなければあなたは無実の罪におちてしまう。恐ろしい二人組強盗の片割れにされてしまう。しかもあなたがあらぬ疑いを受けたその原因は、私が作ったんですもの。私が過《あやま》ってあなたの脚を撃ったためなんですもの。あなたがそれを言いたくない気持ち、私にもよくわかる。どうせ私はこんな女ですもの。だから私それを言わないで、あなたを救う方法を一生懸命に考えた。ええ、ええ、それこそ骨身を削る思いで考えたわ。そして結局私のやった方法よりほかに思いつけなかったんですもの。それがいけないって? だから言ってるじゃないの。盗んで来たものは、どこへもやらずちゃんととってある。あなたが牢《ろう》から出てきたらいずれ機会を見て、もとの持ち主に返すつもりだって。ええ? それはいいがあの男のことですって? だって、だって、それは仕方がないわ。ああでもしなければ、あの男相棒になってくれやしないわ。自分の恋人を救うために、泥棒のまねごとの相棒になってくれって、そんなこと言えて? たとい言っても相手が肯《き》くと思って? あの男についてはこのあいだ打ち明けたのがすっかりよ。どうせこんな体ですもの、二度や三度、あの男のおもちゃになったって……嘘《うそ》よ、嘘よ、私があの男を選んだのは、何も惚《ほ》れてるからじゃない。あの男の跛なのが、私の計画に都合がよかったからなのよ。私あの男を憎むわ。こんな生活を憎むわ。こんな生活に落としたお父さんを憎むわ。お父さんも私もりっぱに日本人なのに、……ええ、そりゃこんな港町ではふつうの日本娘では人眼を惹《ひ》かない。異国人になってたほうが、男を惹《ひ》き寄せる魅力があるって、そういうお父さんの計画はうまくいったわ。でも、でも、お父さんを召使にして、呉《ウー》だの梨英だの……私、もういや。あなた、あなた、私を救って、……ねえ、私を救ってくれる人はあなたしかないわ。いや、いや、きらい、きらい、私、あの男を憎む、憎む、憎む——  梨英が寝室の中で縊《くび》り殺されているのが発見されたのはその翌日のことでした。  冒頭に掲げた一節、彼がその後梨英の父に上海《シヤンハイ》で出会って、あの呪《のろ》わしい刺青《いれずみ》をされた顛末《てんまつ》は、ここへ入るべき物なのである。 「ねえ、先生」  長い長い物語にもかかわらず、刺青された男は疲れも見せずに語りつづけた。 「私は自分をそんなに凶暴な男だとは思っていない。しかし、他人が不当に自分を傷つけた時、私は怒りの発作をどうすることもできないのです。そして怒りの発作が起こった時……私は自分の腕力を呪う。人並みすぐれた膂力《りよりよく》を呪う。梨英の場合でも梨英の父の張《チヤン》——呉《ウー》ですか、二人とも日本人としての名があるのでしょうが私は知らない。どちらの場合でも私は殺そうとまでは思っていなかった。後から思えば梨英はかわいそうなことをしました。私は一度梨英の恋人に会いたいと思う。会って彼女の真情を伝えたいと思う。しかし、もう今となっては駄目《だめ》ですね」  刺青された男は喉《のど》をゴロゴロ言わせながら淋しく微笑《ほほえ》んだ。それはもうなんの苦悩も呵責《かしやく》もない、長い間背負わせられてきた重荷をおろした微笑だった。  私は立って小屋の窓から外を見た。空にはすごいような熱帯の半月がかかって、大|蝙蝠《こうもり》が群れをなしてジャングルの上を飛んでいく。私はつと刺青された男の枕元によった。そして彼の耳元にささやいた。 「君は梨英の恋人に会いたいと言いましたね。その希望は果たされました。いま君の眼の前にいる男がそれですよ」  私はそう言いながら驚愕《きようがく》に眼をみはっている彼の胸に眼をやった。そこには張《チヤン》の彫った呪いの文字が、まだ消えがてに…… [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   大正十二年秋、神戸で梨英という娘を殺した犯人は私である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#見出し]  明治の殺人     一  明治四十二年の秋のことである。  駿河台《するがだい》にある桑島《くわじま》病院の院長桑島ドクトルは、沈痛な面持ちをして千駄《せんだ》ヶ谷《や》にある細木原謙三《ほそきばらけんぞう》の寓居《ぐうきよ》を訪れた。不治の病におかされて、死期を待つばかりの患者を見舞う医者のだれでもがそうであるように、桑島ドクトルの心は重かった。ことに患者が他人ではなく、おのれが近親であるのみならず、長い間心友として交わりを結んできた人物であっただけに、ドクトルの重い気持ちのなかには、職業的でない、深い悲しみさえ多分にまじっていた。  雨に打たれて黒くなった粗末な門のくぐりをくぐる時、ドクトルはいつも一種の感慨に打たれる。生涯《しようがい》を自由のために闘ってきた闘士、細木原謙三の住まいがこれなのか——と。するとドクトルはいまさらのように、この不遇な友の生涯がかえりみられて、暗然たる気持ちに閉ざされるのであった。  玄関に立って呼鈴《よびりん》を押すと、広からぬ家のなかにジリジリと鳴りわたる金属性の物音が、かえってこの家の息を殺して病人を見守っている静けさを象徴しているようで、ドクトルはあわてて呼鈴のボタンから手をひいた。  すると間もなく、ひそやかな足音がきこえてきて、中から格子《こうし》をひらいたのは、この家の老僕|伍介《ごすけ》であった。伍介はドクトルの顔を見ると、一歩うしろへ退いて、袴《はかま》に手を当てて無言のまま頭を下げた。 「さきほどは、使い、御苦労だったね」  伍介はまた頭を下げた。 「どうだね。あれから変わったことはないかね」 「はい、今日はずっと落ち着いておいでになりますようで……先生様のおいでを、たいそう待ちこがれていらっしゃいます」 「そう」  伍介に鞄《かばん》を渡すと、ドクトルは自分で外套《がいとう》をぬいで玄関の釘《くぎ》にかけた。そして勝手知った家のこととて自ら先に立って歩き出した。  足音をきいて、なかから病室の襖《ふすま》をひらいたのは、謙三の娘の明子《あきこ》であった。明子はいままで泣いていたとみえて、まだ涙の残っている眼で、訴えるようにドクトルの顔を仰いだが、すぐまた無言のまま畳の上に頭を下げた。長い間の病人の看護と、それからドクトルもうすうす知っている、もう一つの悩みのために痩《や》せ細った明子のうなじは、一握りにも足りないほどやつれて、それを見下ろすドクトルの眼にいたいたしくうつった。  しかしつぎの瞬間、じっとこちらを見ている謙三のほうへ眼を向けた時、ドクトルの顔からは、もうあの沈痛な色はぬぐわれたように消えて、いつも病院で患者に応接する時のような、精力的な晴れ晴れした顔色にかえっていた。 「やあ。さきほどは使いをありがとう。どうだね気分は……」  病人の枕元《まくらもと》にどっかとあぐらをかくドクトルに座布団《ざぶとん》をすすめ、伍介の持ってきた鞄をそこへおくと、かねてから父に言いふくめられていたとみえて、明子は無言のまま頭を下げて、静かに部屋を出ていった。 「ふむ、ありがとう」  謙三は顔を横にねじむけて、明子が外から襖《ふすま》をしめてしまうまで見送っていたが、やがてその眼をドクトルのほうに向けると、この病気特有のしゃがれた声でいった。 「わざわざ来てもらってすまなかった。にわかに話しておきたいことをおもいついたものだから」 「ああそう、とにかく診察させてもらおうか」  ドクトルが鞄を開きにかかるのを、謙三はあわてて手をあげてとめた。 「いや、今日はいい。診《み》てもらったってもらわなくったって、どうせ同じことだから」 「しかし、せっかく来たのだから……」 「いや、ほんとにいいんだ。それより話というのを聴いてもらいたいんだ」 「どうしたんだね。いやに急ぐじゃないか」  ドクトルは取りあげた鞄を、手持ち無沙汰《ぶさた》にいじりながら病人の顔を見直した。  五十にはまだ二、三年|間《ま》のある年ごろだし、眼の光などには、病人とも思えぬほど生き生きとしたものがあったが、肉という肉を完全に削《そ》ぎ落とされた、頬《ほお》から顎《あご》へかけての骨ばった線や、大きく飛び出した喉仏《のどぼとけ》や、さては蒼黒《あおぐろ》い皮膚の色などには、医者ならずともはっきり読み取ることのできる死相がありありと現われていた。謙三の病名は喉頭癌《こうとうがん》であった。 「それゃ……急ぎもするよ。おれみたいな立場になってみろ、だれだって急がずにゃいられまい。死ぬ前にいろいろと片づけておかなければならんことがあるからな」  ふつうならば、病人の口からこんな言葉をきいた場合、なんとか相手を元気づけるような冗談を見いだせぬドクトルではなかったが、なにしろ相手が相手であった。お座なりをいったところではじまらないことを、桑島ドクトルはよく知っていた。無言のまま相手を見守っているよりほかはなかった。 「で、君に話しておきたいというのは明子のことだ。少し長くなると思うが、聴いてもらえるかね」 「よし、聴かせてもらおう。しかし、大丈夫かい。そんな長話をして苦しくないかね」 「苦しいたって仕方がない。これはぜひ話しておかねばならないことなのだ。苦しくなったら合図をするから、すまないが、その時は吸い飲みの水を飲ませてくれ」 「よし来た。しかし急ぐことはない。なるべく楽なようにゆっくり話したまえ」  謙三は眼を閉じると無言のままうなずいた。そして眼を閉じたまま言った。 「明子に近ごろ縁談のあることを君も知っているだろうね。相手は薬王寺恭助《やくおうじきようすけ》という理学士だ」  桑島ドクトルは無言のままうなずいた。明子がいま思い煩いやつれているのは、父の病気も病気だが、ひとつにはこの縁談のためであることを、ドクトルもよく知っている。 「明子は死ぬほどその青年にこがれている。いや、口には出さずともわしにはよくわかる。わしを見るあれの目がよくそれを物語っている。相手の青年も明子を愛していることは間違いはない。わしもたった一度だが、病に倒れる前にその青年に会ったことがある。りっぱないい青年だ。近ごろの若い者のようではない。大学で顕微鏡ばかりのぞいているだけであって、誠実で、軽薄なところが微塵《みじん》もないのが気に入った。明子を託すには、この上もない人物だとわしも思う」  謙三はそこで一息いれるように言葉を切ると、激しい、ぜいぜいいうような息使いをした。桑島ドクトルは眉《まゆ》をひそめて、不思議そうに謙三の顔を見守っていたが、にわかに膝《ひざ》を乗り出すと、 「それだのに、君はこの結婚に反対しているんだね」 「そうだ」 「なぜだろう。なぜいけないのだろう」  病苦にさいなまれつくした謙三の容貌《ようぼう》のなかで、ただ一つ生き生きとしている眼が、そうして、瞼《まぶた》でおおわれてしまうと、彼の死相にはいよいよのっぴきならぬものがあった。もし、謙三の激しい息使いがなかったら、だれの眼にも死人としかうつらなかったろう。しかしその時ドクトルは、相手のそういうひどい衰弱さえ忘れてしまうほど、切ないものが胸もとにこみあげてきていた。それは、思い、煩い、やつれはてて、何かを訴えているような、明子の瞳《ひとみ》を思い出したからであった。 「ねえ、細木原君。よけいなことをいうようだが、明さんのおふくろは私にとっては従妹《いとこ》だった。それもただの従妹ではない。私とは兄妹《きようだい》のようにして育ってきた仲なのだ。私は明さんを自分の姪《めい》とも娘とも思っている。してみれば、明さんのことについては、私にもいくらか発言権があってもよかろうじゃないか」  相手が何かいうかと思って言葉を切ったが、謙三は相変わらず眼を閉じたままだった。そこでドクトルはまた言葉をついだ。 「このあいだも伍介が来て嘆いていたぜ。このままじゃお嬢さん死んでしまうって。悲嘆のあまり体をそこなうか魂を破るか、ああいうおとなしいお嬢さんだけに、思いはいっそう深いものだと。……きみも伍介がどんなに明さんを愛しているか知っているだろうね」  謙三は眼を閉じたままうなずいた。 「伍介は私に言葉添えをしてもらいたいというのだった。私も機会があったら口を利こうと約束しておいた。しかしその後きみの容体がはかばかしくないし、それにきみの気持ちもわからなかったので、いままで控えていたのだ。だが、いま聴くときみもその青年が気に入っているという。その言葉に嘘《うそ》はないのだろうね」  謙三は強く強くうなずいた。 「それじゃなぜいけないのだ。どこにこの結婚に反対する理由があるのだろう」  ドクトルはできるだけおだやかに話をしようと思ったが、それにもかかわらず、いつか詰問するような調子になるのをおさえることができなかった。それに対してただ一言、吐き出すようにいった謙三の言葉はこうであった。 「あの男は薬王寺|俊太郎《しゆんたろう》の倅《せがれ》なのだ」  それを聞くとドクトルは眉《まゆ》をひそめて、 「薬王寺俊太郎……? ああ、そうか。きみは軍人ぎらいだったね。しかし細木原君。それはきみ、あまり頑冥《がんめい》じゃあるまいか。なるほど薬王寺俊太郎は軍人だったね。大佐だったかしら、少将だったかしら、しかしその人はもう二十年も前に死んでいるのだし、本人の恭助君は軍人じゃない。親父《おやじ》が軍人だったからって、ただそれだけの理由で、娘の幸福を犠牲にするというのはあまり酷じゃないか」 「それだけじゃないのだ。ただそれだけの理由じゃないのだ」  不意にくわっとひらいた謙三の眼には、病苦とはちがった激しい苦痛のいろがあった。 「おれだって……おれだってただそれだけの理由で、この結婚に反対しようというほどのわからず屋ではない。もっとほかに……もっとほかに、どうしても反対しなければならぬ大きな理由があるのだ。そして……そしてきみに聴いてもらいたいというのはその話なのだ」  謙三の頬《ほお》は苦痛のためにはげしくふるえた。しかもその苦痛が謙三の肉体からきているのではなくて、精神的な苦悩からくるものであるらしいことが、ドクトルの眼にもよくわかった。ドクトルは探るように謙三の顔を見ながら、 「よし、聴かせてもらおう」  と、膝《ひざ》を少し前に乗り出した。謙三はまた眼を閉じて、しばらく呼吸をととのえていたが、やがて全くちがった調子でこんなことをいった。 「きみ、床脇《とこわき》に手文庫があるだろう。すまないがそれをちょっと取ってくれないか」  ドクトルが振り返って見ると、なるほど床脇に、昔の文箱《ふばこ》を少し大きくしたくらいの、漆塗《うるしぬ》りの文庫がおいてあった。立ち上がって手にとってみると、何が入っているのか、ずっしりと手ごたえのある重さで、しかもその手文庫には、紫色の紐《ひも》がかけてあり、その紐の結び目には日本紙で厳重に封印がしてあった。 「これを……?」 「開いてみてくれ」 「だが、これには厳重に封がしてあるぜ」 「構わないから封を切ってくれ」  封を切って蓋《ふた》を取ると、中には紫の袱紗《ふくさ》にくるんだものが入っていた。手にとってみると、固い、ごつごつとした金属性の手触りが、はっとドクトルにある品物を連想させたので、急いで袱紗をひらいてみると、果たして中から出てきたのは一|挺《ちよう》の拳銃《けんじゆう》であった。それは明治四十年ごろでもすでに旧式となっていた、大きな、古風な格好の拳銃で、明治の初年ごろに渡来した前装の六連発、いわゆる「引き落とし式」というやつである。 「ピストルがあったろう」 「ふむ……」 「おれがこれから話をしようというのは、そのピストルに関係があるのだ。それはきみに預けておく。さあ、話すからよく聴いていてくれ」  ドクトルは不安な胸騒ぎを感じながら、探るようにそのピストルと衰えはてた謙三の顔を見比べていた。謙三はしかしそんなことにはお構いなしに、ふたたび眼を閉じると、枯れ木のような両手を胸の上に組み合わせ、それから淡々たる調子でつぎのような話をしたのである。     二  細木原謙三は明治維新を築き上げた、西国《さいこく》のある大藩の下級藩士の子として生まれた。だからもう十年も早く生まれていたら、彼もまた同藩の子弟の多くのものと同じように、いわゆる維新の志士として活躍していたかもしれなかった。  しかし幸か不幸か、鳥羽伏見《とばふしみ》の戦いから上野戦争、さらに函館《はこだて》の戦いと、江戸幕府の勢力が完全に崩壊して、明治の新政府が強固にうちたてられた明治の初年には、彼はまだ七つか八つの少年であった。したがって、同藩の先輩たちの華々しい活躍ぶりを、彼はただ話に聞くのみであった。明治の新政府に同藩の先輩たちが、着々と地歩をしめていくのを、彼はただ遠くのほうから眺めているばかりであった。そのことは決して彼を愉快にしなかった。反対に彼を憂鬱《ゆううつ》にする場合のほうが多かった。  つまり近ごろの言葉でいえば、彼はバスに乗りおくれたのである。数年おそく生まれたがために、大きく回転する時代の風雲に乗ずる機会を逸した自分を、彼はどんなに激しい憤りと嘲《あざけ》りとをもってみつめたかわからない。むろん、彼にその志さえあれば、先輩の手蔓《てづる》によって、新政府に地位を得ることはなんでもないことであったろう。現に彼の同輩の多くはそうして、しだいに頭をもたげはじめていたのである。細木原謙三はそれができない性分《しようぶん》であった。狷介《けんかい》な彼はどうしても、先輩の勲功のおあまりをちょうだいするために、尻尾《しつぽ》がふれない性質であった。  こうしてしだいに彼は同藩の人々から離れていった。彼の藩中の子弟の多くは、軍人を志望するならわしであったが、彼はまったくちがった道を選んだ。彼は新聞記者になったのである。  しだいに彼は同藩出身の人々から異端者扱いをうけはじめた。細木原謙三か、あいつは気ちがいだよ、と、明治政府に時めいている、かつての先輩や同輩は彼を嘲った。そういう噂《うわさ》が耳に入るにつけ、彼はいよいよ激しく反発した。そしてその反発は猛烈な勉強となって現われた。彼はつとめて西洋の思想や政治について知ろうとした。  そういう勉強が身についてくるにしたがって、時の政府に対する彼の反感は、いよいよ激しく燃えさかった。  かつてそれは、個人的感情によるものであったが、いまではもっと大きな立場から、反対しなければならぬ理由を発見しはじめていたのである。  折りあたかも同じくバスに乗りそこなった連中によって、藩閥反対、藩閥打倒の叫びがあげられはじめたころだったが、その急先鋒《きゆうせんぽう》に立ったのは細木原謙三だった。  謙三は彼の激しい性格そのままの、激しい筆をもって縦横に時局を論じ、時の政府に毒づいていた。  明治十八、九年ごろの謙三のその鋭鋒《えいほう》は、主として山県有朋《やまがたありとも》にむかって集中された感じがあった。山県有朋は当時内務|卿《きよう》であったが、陸軍に対しても大きくにらみを利かしていた。まったく日本陸軍というものは、山県によって生まれ、山県によって育てられたといってもよかった。  山県は内務卿の椅子《いす》にあるあいだ、その仮借《かしやく》なき性格を遺憾なく発揮して、政府の施政に反対するものを容赦なく弾圧した。立憲政党や改進党、自由党などの解散されたのもその間《かん》のことであった。むろん、これらの党の思想と後年の自由主義とのあいだに大きなひらきのあることはたしかだったが、それでも当時の政府より、はるかに進歩的な意見をもっていたことは争えない。  謙三はこういう情勢を見ると黙していることができなかった。彼の筆はいよいよ辛辣《しんらつ》に、いよいよ鋭く山県の急所をつき、ほとんど熱狂的な憎悪をもって山県を攻撃した。その結果はとうとう彼の主宰している新聞の解散となって現われた。それは明治十九年の秋のことである。  この事はしかし謙三もあらかじめ覚悟していたところなので、大して驚きもしなかった。こうして閑散の身となったのを機会に外遊してこようと思いたって、その手続きをとった。だがその前にどうしても一人の人間を、この世から抹殺《まつさつ》しておかねばならぬと決心したのである。それが薬王寺俊太郎《やくおうじしゆんたろう》だった。  薬王寺俊太郎は当時陸軍大佐だったが、いわゆる知謀百出の策士型ともいうべき人物で、山県の懐刀《ふところがたな》であった。山県の画策《かくさく》の多くは、この薬王寺俊太郎の方寸から出るといわれていたが、こういう人物の常として、自ら表面に立って事を行なおうとしない。いつも黒幕の背後にあって、陰から糸を引こうとするのである。細木原謙三はそれを憎んだのであった。  よかれ悪《あ》しかれ、山県は責任ある地位に立ち、自らの責任を明らかにしているに反して、薬王寺俊太郎にはそれがない。謙三が世にもっとも憎むものは黒幕的存在であり、黒幕こそは政治を毒するものであるというのが、細木原謙三の信念であった。 「この信念にはいまも変わりはない。しかし、いまならば黒幕を排斥するにしても、もっとちがった方法をとったろう。しかしその時分のおれはまだ若かった。直接行動にうったえるということが、同じく政治を混乱におとしいれるということを知らなかった。いや、知らなかったわけではないが、若者の情熱からそれを押さえることができなかったのだ。おれはいまそれを悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない後ろめたさを感じているのだ」  こうして薬王寺俊太郎を暗殺しようと決心した謙三は、しかし相手の命と自分の将来をひきかえにするのはまっぴら御免だと思った。相手がもっと大物ならともかく、その程度の人物のために、自分の将来を棒にふってはたまらないという気持ちだった。そのためには、この暗殺を絶対に人に知られないように決行しなければならない。そしてそれを決行すると同時に、海外に逃避しようと考えたのである。  謙三はこういう計画をたてると同時に、ただ一人の人物にこのことを打ち明けた。相手は従僕の伍介《ごすけ》だった。  伍介は謙三にとって生涯《しようがい》の伴侶《はんりよ》である。彼は代々細木原家の家扶《かふ》をつとめた家筋だが、瓦解《がかい》後、謙三が禄に離れ、浪々の身となったときでも、決して昔の主人のもとを離れようとはしなかった。謙三より八つ上の伍介は、ある時は謙三の父であり兄であり、ある時は無妻の謙三の女房であり、またある時は謙三の従卒であり忠実な犬でもあった。  謙三からこの無謀な計画をきかされた時ばかりは、さすが無口な伍介も、口をきわめて謙三を諫《いさ》めた。しかし、いったんこうと言い出したら、絶対に後へひかぬ謙三の気性をよく知っている伍介は、最後にはあきらめたようにこの計画に同意しなければならなかった。  謙三が伍介に計画を打ち明けたのは、彼の助力が必要だったからである。つまり伍介によって薬王寺俊太郎の動勢を探ろうというのであった。朴訥《ぼくとつ》で、機転の点においては大して期待できない伍介だったが、その代わり着実で細心な彼は、こういう役にはうってつけだった。  こうして十日あまり伍介は、薬王寺俊太郎の後をつけまわしていたが、ついに機会はやってきた。  明治十九年十一月三日、当時一世のハイカラと謳《うた》われた時の外務卿井上|馨《かおる》の主催によって、麹町《こうじまち》内山下町の鹿鳴《ろくめい》館で、盛大な天長祝賀の舞踏会が催された。この招宴に臨む者、皇族方をはじめとして、内外の貴顕紳士千数百名、車馬をつらねた中に、薬王寺俊太郎も近ごろ手に入れた二頭立ての馬車を、自ら駆って馳《は》せ参ずるというのであった。  細木原謙三にとって、これほどの機会はまたとあるべきはずはなかった。なぜならば、彼が外遊のために乗り込もうとする汽船は、その翌日横浜を解纜《かいらん》するはずであったから。  謙三の心は躍った。薬王寺俊太郎が鹿鳴館よりの帰途を擁《よう》して事を決行し、すぐその足で横浜へ駆けつければ、翌日にははや故国を離れることが出来るのである。彼の外遊はだいぶ前から決定していることだったし、薬王寺俊太郎に対する彼の憎悪は、いままで胸底ふかく秘められていたことだから、うまく事を運びさえすればおそらく疑いのかかるようなことはあるまいというのが謙三の目算であった。  留守中のことはこまごまと、伍介に言いふくめてある。いまはもう何も気になることはなかった。ただ、事を決行するばかり。 「その夜のことをいまだにおれは忘れない。おれは幾度も鹿鳴館の周囲を徘徊《はいかい》した。館の楼上高く瓦斯《がす》燈で描かれた、鹿鳴館という三字が、瞼《まぶた》を閉じるといまでも眼底にうかぶようだ。館を埋めた菊花の雛壇《ひなだん》、やがて馬車をつらねて駆けつけた連中の中には、三条もいた、伊藤もいた、山県もいた、松方もいた、榎本《えのもと》もいた。やがて館内から漏れてくるカドリール、ワルツ、ポルカの楽《がく》の音《ね》、そして館外に打ち揚げられる花火の明滅、おれは酔えるがごとく館のほとりを彷徨《ほうこう》していたが、やがて思い直して日比谷原頭、練兵場のほとりに身をひそませたのだ。……」  それは九時ごろのことであった。日比谷の闇《やみ》に身をひそめている謙三のもとに、伍介があわただしく駆けつけてきた。いま、薬王寺俊太郎が鹿鳴館を出た、というのである。その夜の舞踏会は、深夜の一時ごろまでつづいたのであったが、薬王寺俊太郎はなにかの都合で中座したのだろう。だが、これこそ謙三にとってはもっけの幸いであった。  彼はそばに躊躇《ちゆうちよ》している伍介にむかってきびしい声で命令した。 「おまえはもう帰っておれ」 「いいえ、旦那《だんな》、私もいっしょに……」 「いけない、いけない。もしものことがあっておまえもいっしょに捕らえられるようなことがあってはたいへんだ。おまえの用事はもうすんだ、後はおれにまかせておけ」  しばらく二人は押し問答をしていたが、やがて伍介はきびしく主人にきめつけられて、しぶしぶその場を立ち去った。  だが、伍介の報告にもかかわらず、薬王寺俊太郎の馬車はなかなか現われなかった。五分——十分——謙三がしだいにじりじりしはじめた時である。ついに聞こえてきた。戞々《かつかつ》たる馬蹄《ばてい》の音が、轣轆《れきろく》たる轍《わだち》の音が。……  やがて日比谷原頭の瓦斯燈の光に、くっきり姿を現わしたのは、まぎれもなく薬王寺俊太郎の二頭立ての馬車であった。御車《ぎよしや》台に座して自ら手綱を操っている人物は、瓦斯燈の光がとどきかねて、さだかにそれとは見極《みきわ》めかねたが、彼が自慢の大きな八字|髭《ひげ》が、くっきりと薄暗がりに浮きあがっている。今夜は軍人としてでなく、一私人の資格で出席したと見えて、燕尾《えんび》服にシルクハットという姿であった。  謙三はその馬車が目の前に来るのを待って、ピストルを発射した。一発、二発、三発と、つづけざまに発砲した。最初の一発はねらいがそれたが、二発目はみごとに腹部に命中した。薬王寺俊太郎はなんとも名状することのできぬ声をあげて前に突っ伏した。つづいて三発目を撃ったが、この時二頭の馬が仁王《におう》立ちになったかと思うと、やにわに矢のように疾走しはじめたので、果たしてそれが命中したかどうかはわからなかった。  馬車が駆け出したがために、相手の最期を見届けることができなかったのは残念だったが、たしかに命中した第二発目に満足して、謙三はそのまま闇《やみ》の中に姿を隠した。そしてその翌日、予定どおり横浜から外遊の途《と》についたのである。 「ロンドンできみやきみの従妹《いとこ》の万里子《まりこ》と相知った時おれにはこういう秘密があったのだよ」  ロンドンへ着いた謙三は、故国からの通信に全身の神経を集中していた。彼は日本大使館へ来る故国の新聞を、眼を皿《さら》のようにして読みあさった。また、後からやってきた日本人に、それとなく薬王寺俊太郎の消息をきくことも忘れなかった。しかし不思議なことには、薬王寺俊太郎の遭難については、どの新聞にも一行も出ていなかったし、その後日本を立った人々も、だれ一人、そういう噂《うわさ》を知っている者はなかった。もっとも、薬王寺俊太郎は、黒幕としてこそ有力だが、世間的にはそれほど知られた人物ではなかったので、新聞では問題にしなかったのかもしれない。あるいはまた、何か理由があって、当局がその事をひた隠しに隠しているのかもしれなかった。どちらにしても、謙三は奥歯に物のはさまったような、妙にいらだたしい気持ちだった。  一月《ひとつき》ほどすると伍介から手紙が来た。それにはただ、万事上首尾とあるばかりで、それ以外のことは何も書いてなかった。上首尾というのは、だれも謙三を疑っている者はないという意味だろうが、それにしても薬王寺俊太郎はどうなったのか、あのまま死んだのか生きているのか、生きているとすればどういう容体なのか、そういうことは一切書いてなかった。謙三のいらだちはいよいよ激しくなった。  ところが、それから三|月《つき》ほどして、年も明けた明治二十年の春になって、伍介から一枚の新聞を送って来た。それはその年の二月三日付の東京の新聞であったが、そこには次ぎのような記事が載っていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   ——旧臘《きゆうろう》馬車の転覆のために大|怪我《けが》をした薬王寺俊太郎は、その後自宅で療養中だったがついに昨日|逝去《せいきよ》した。—— [#ここで字下げ終わり]  謙三はこれを読むと、はじめてほっと胸をなでおろしたのである。長い間の溜飲《りゆういん》がやっと下りたという気持ちであった。そこには狙撃《そげき》一件について一言も触れてなかったが、なにかの理由で、薬王寺家ではそのことを秘密にしているのだろう。  謙三はその晩、ホテルで、ひそかに祝杯をあげたのであった。 「桑島《くわじま》君、おれの話というのはこれだけだ。これから後のことはきみも知っているとおり、おれはロンドンに三年いて、そしてそのあいだにきみの媒酌《ばいしやく》で、きみの従妹の万里子と結婚した。そして相携えて帰朝すると間もなく明子が生まれたのだ。おれが薬王寺俊太郎の倅《せがれ》と明子との結婚に同意することのできない理由はここにある。薬王寺|恭助《きようすけ》にとっては、おれは親の敵《かたき》なのだ」  長い話に疲れたのか、謙三はここで深い深い溜息《ためいき》を吐いた。桑島ドクトルは身動ぎもしないでこの話に耳を傾けていた。彼の眼には彷彿《ほうふつ》として、あの訴えるような明子の瞳《ひとみ》がうかんでくる。すると彼もまた絶望的な、深い深い溜息を吐いたのである。  謙三はふたたび苦悩に満ちた眼をひらくとすすり泣くようなしゃがれ声でこういった。 「桑島君、おれは明子を愛している。恭助という相手の青年にも好感を持っている。できることなら二人を夫婦にしてやりたい。しかし……しかし、おれの口からはどうしても、許すという言葉は出ないのだ。だが、……だが、……おれは間もなく死ぬだろう。おれが死んだのちまでも、明子はやはり恭助の敵の片割れと目さるべきだろうか。桑島君、はなはだ身勝手な話だが、そこのところをきみの判断にまちたいと思うのだ。この事を二人に打ち明けてあきらめさせてしまうか、それとも一切秘密にして二人の望みをかなえてやるか、桑島君、それをきみに一任したい。お願いだ。引き受けたといってくれ、きみはさっき明子を自分の娘とも思っているといってくれたな、おれはそれを知っている。知っているからこそ頼むのだ。桑島君、細木原謙三が最後の願いだ。引き受けたといってくれ。なあ、頼む……頼む……」  細木原謙三が、その不遇な生涯《しようがい》の幕を閉じたのは、その翌日のことである。     三  桑島ドクトルの心は重かった。  引き受けた——と、言ったものの、そしてその言葉に微塵《みじん》の嘘《うそ》もなかったものの、あまりにも大きな責任に、さすが剛腹なドクトルも圧倒されているようであった。  謙三の遺志が、この事を一切不問にして、二人を夫婦にしてやってくれというところにあったらしいことは、桑島ドクトルにも、わかり過ぎるほどよくわかっていた。そしてドクトル自身もそうしてやりたいと思う心はやまやまであった。しかし、こういう恐ろしい秘密を押し包んで、知らぬ顔の半兵衛をきめこんで二人を夫婦にしてやったのち、万一、この事が明るみに出たら……そう考えると、ドクトルは軽々に決心することはできなかった。  明子は桑島ドクトルが、父から万事を一任されていることをよく知っているので、その後の彼を見る瞳《ひとみ》にはいよいよ切なるものがあった。伍介は伍介で、何か言いたげに哀願するようにドクトルの顔を見る。しかもドクトルはまだ決断しかねているのである。  それは謙三の初七日のことであった。桑島ドクトルは仏の前で、ふとこんなことを明子に尋ねてみた。 「明さん、きみは恭助君から、恭助君のお父さんのことを聞いたことがありますか」 「はあ……」 「恭助君のお父さんは、恭助君のまだ幼い時分に亡くなったのだね」 「はあ、たしか五つの時だったそうです」 「どうして亡くなったのだろう。きみはその事について恭助君からきいたことがありますか」  明子は驚いたようにドクトルの顔を見直した。しかしすぐ静かな調子でそれに答えた。 「ございます。恭助さんのお父さんは、馬車がひっくりかえって大|怪我《けが》をなすったのだそうです。そして一月ほど寝ていらっしゃったあげく、とうとう二月のはじめにお亡くなりになったのだということです」 「一月《ひとつき》ほど寝たあげくに、二月のはじめに……? するとその馬車が転覆したのはいつごろのことだろう」 「はあ、なんでも師走《しわす》のことだったそうです。そうそう御用納めにお役所へ出られたその帰りだったという話でございました」 「師走の御用納め……? 明さん、その事に間違いはないかね」  ドクトルの声が思わず高くなったので、明子は怪しむように顔を見た。しかし、すぐ伏し眼になると、同じような静かな声で答えた。 「恭助さんはたしかにそうおっしゃいました。それは明治十九年の暮れのことで、恭助さんはその時四つだったそうですが、お父さんが大怪我をしてかつぎこまれた時のことを、いまでもよく覚えているとおっしゃいました。それは師走の風の強い夕方のことで、その時恭助さんはお正月のために買っていただいた凧《たこ》を、家の前で書生さんといっしょにあげていたそうです」  ドクトルの胸は怪しく躍った。そこまで記憶しているとすれば、恭助の言葉にあやまりがあろうとは思えない。正月用の凧を、十一月三日ごろに買ってもらおうとは思えないし、また薬王寺俊太郎がかつぎ込まれたのは夕方のことであるという。  するとこれはどういうことになるのだ。十一月三日の晩、細木原謙三に狙撃《そげき》された俊太郎の傷は案外軽くて、年末にはもう出仕《しゆつし》できるまでに回復していたのだろうか。しかし細木原の話によると、弾《たま》はたしかに腹部に命中したという。それがたとい致命傷にならなかったとしても、そう早く回復するというのは受け取れぬことである。  桑島ドクトルはもう一歩つっ込んで、恭助の父がその災禍に遭《あ》う前にだれかに狙撃されたようなことはないかと訊《き》いてみたかったが、そこまではついに口に出すことができなかった。明子はいまの質問だけでもうだいぶ怪しんでいるのである。それ以上の質問を切り出すのは、藪《やぶ》をつついて蛇《へび》を出すのも同じことだった。  その日、桑島ドクトルは自宅へ帰ると、書生に命じて明治十九年十一月と十二月の新聞を集めさせた。書生はすぐ二、三の新聞社をまわって、命じられた新聞の一束を借りてきた。  その夜、桑島ドクトルは克明にそれらの新聞に眼を通した。彼はまず十一月四日五日の新聞を調べてみたが、どの新聞にも日比谷原頭の惨劇に相当するような記事は出ていなかった。六日、七日、八日を調べてみたが、いずれも同じことである。  そこでこんどは十二月の新聞を終わりのほうから調べはじめたが、するとこんどはすぐに求める記事が見つかった。十二月二十九日の新聞はいっせいに、薬王寺俊太郎の遭難を報道している。  それによると、昨日の夕刻陸軍省を出た薬王寺俊太郎の馬車は、何に驚いたのかにわかに奔走しはじめたが、霞ケ関の外務省のほとりで、ついに一頭の馬が脚を折り、馬車は激しい勢いで転覆した。そしてそのはずみに、馬車から投げ出された薬王寺俊太郎は、外務省の塀《へい》に頭を強くうちつけて、人事|不省《ふせい》におちいっているのを、駆けつけた人々によって発見された。俊太郎は脳震盪《のうしんとう》を起こしているらしく、生命危篤である。  桑島ドクトルはこの記事を前にして、猛烈に鼻から煙草《たばこ》の煙を吐き出していた。こういう記事が出ているからには、恭助の記憶に間違いはなく、薬王寺俊太郎の生命をうばった災難というのは、十二月二十八日に起こっており、そして細木原謙三とはなんの関係もないのだ。おそらくさきほどもドクトルが想像したとおり、謙三に狙撃《そげき》された俊太郎の傷は案外軽傷ですんだろう。  ドクトルは助かったと思った。謙三は俊太郎を狙撃はしたが、相手の生命をうばったわけではないのだ。とすれば、恭助と明子の結婚に反対しなければならぬ理由はどこにあるだろう。  ドクトルは新聞を前にして、突如、床《ゆか》にひざまずいた。久しく忘れていた神への祈りを、その時ほど熱心にささげたことはない。ドクトルの眼には涙さえうかんでいた。  ところがそれから二、三日のちのことである。駿河台《するがだい》の病院の診療室で、患者の診察にあたっていた桑島ドクトルは、その日が初診の外来患者と向かいあって座っていた。患者は品《ひん》のよい初老の婦人で、身だしなみのよい、清潔な感じのする人だった。 「どこがお悪いのですか」  桑島ドクトルはそういいながら、診察にかかる前に看護婦の記入したカルテの名前に眼をやって、思わずはっと眼をそばだてた。  薬王寺|節子《せつこ》。——年ごろからいっても、それは恭助の母、すなわち薬王寺俊太郎の未亡人にちがいなかった。ドクトルが聴診器を持ったまま、戸惑いしたような顔をしているのを見ると、婦人はほのかな微笑《ほほえ》みをうかべたが、すぐに、固い、まじめな表情にかえった。 「先生、こんなふうにしてお眼にかかるなんて、ほんとうに失礼だということはよく存じております。しかし、はじめから名乗りましては、ひょっとするとお眼にかからせていただけないかもしれぬと思いまして……お察しでもございましょうが、わたくし、薬王寺恭助の母でございます」 「はあ。……」  ドクトルはまぶしそうに未亡人の顔を見ながら、手持ち無沙汰《ぶさた》に聴診器をいじくっていた。未亡人の瞳《ひとみ》には一生懸命のいろがしだいにこくなったが、しかし、その声は相変わらずおだやかであった。 「こう申し上げれば、わたくしがなぜこんな失礼をおかしてまで、ここへまいったかよくおわかりのことと存じます。先生が細木原謙三さんから、後事一切を託されていらっしゃるということは、明子さんから伺いました。それでお伺いしたい事や、お願いしたい事があって参上したのでございます。先生、恭助のどこに不服があって、細木原さんはああまで頑《かたくな》にこの縁談に反対なすったのでございましょう」 「さあ。……」  ドクトルは言葉に窮した。謙三も恭助に異存はなかったのである。しかしその事をいえば、その背後に隠れている秘密を打ち明けなければならない。ドクトルが思い惑っていると、それをどういうふうにとったのか、未亡人はにわかにハンケチを出して眼にあてた。 「先生、恭助は明子さんを愛しています。いいえ、恭助ばかりではなく、わたくしも明子さんをいとおしく思っています。失礼ながらほんとの娘のように思っています。そしてこれは親の欲目かもしれませんが、明子さんの婿として、恭助は決して恥ずかしい人物ではないとわたくしは思います。むろんまだ書生同様の身でございますから、収入とても少なく、また、家にこれといって財産があるわけではございません。しかし、細木原さんはそういうことを問題になさる方とは思えません。そうするとどこに言い分があって、この縁談に御不承知なのでございましょう。それをお伺いしたいと存じます」  未亡人の切々たる訴えを聴いていると、ドクトルはどうしても、ある程度まで真実を打ち明けずにはいられなくなった。 「奥さん、細木原も恭助君に言い分があったわけではなかったのです。反対にあの男も恭助君には惚《ほ》れこんでいたんです」  未亡人はハンケチを眼から離すと、探るようにドクトルの顔を見た。ドクトルは勢い後をつづけなければならなかった。 「細木原がこの縁談に躊躇《ちゆうちよ》したのは、恭助君に難点があるのではなく、いわば……恭助君のお父さんに……」  未亡人ははっとしたように眼をすぼめた。それからしばらく黙ってドクトルの顔をみつめていたが、やがて静かにこういった。 「わかりました。その事はわたくしもうすうす承知しておりました。亡くなりました主人と、細木原さんとは、政治上の意見で対立していらしたようでございます。しかし、先生。それではあまり女々《めめ》しいではございませんか。二十年も以前のこと、ましてや本人の恭助の何も知らぬことを根に持って、いつまでも敵視するというのは、細木原さんにも似合わしからぬことと思いますがいかがでしょうか」  ドクトルはそこでまた言葉に窮した。だが、その後ドクトルはとうとう思いきってこう切り出してみたのである。 「奥さん、これは話が別ですが。あなたは御主人が災難に遭われた年、すなわち明治十九年十一月三日の夜のことを覚えてはいらっしゃいませんか」 「十一月三日の夜のこと……?」  未亡人は不思議そうに首をかしげた。 「そうです。その晩、鹿鳴《ろくめい》館で舞踏会があって、御主人も出席されたはずですが、その時、何か変わったことでもおありじゃなかったですか」  言ってしまってからドクトルは、しまった、これでは少し深入りしすぎたかなと危うんだが、意外にも未亡人の表情には予期したような反応は現われなかった。不思議そうに小首をかしげてドクトルの顔をみつめていたが、急にはっとしたように、 「そうそう、その晩、ちょっと妙なことがございました。主人の馬車が紛失したのでございます」 「御主人の馬車が……」 「そうなのでございます。これは後から、主人に伺ったのでございますが、その時分、主人は二頭立ての馬車をある人から贈られまして、得意になって乗り回しておりましたが、その晩もその馬車で鹿鳴館へまいったのでございます」 「ちょっとお伺いいたしますが、その時、御主人が自ら手綱を取られたのですか」 「いいえ、むろん御者《ぎよしや》が、ついておりました。ところで、舞踏会のありますあいだ、馬車は館外の広場につないであったそうです。その晩はお供の人々にも振る舞い酒が出ましたので、御者はそのほうへまいってごちそうになっていたのでございますが、そのあいだにだれが引っ張り出したのか、馬車が見えなくなってしまいまして……たしか主人はその晩二時ごろ、御者と二人で歩いて帰ったように記憶しております。幸い、馬車はその翌日、愛宕《あたご》下あたりの路傍にとまっているのが見つかってもどってまいりましたが、だれが引っ張り出したものか、それはとうとうわからずじまいでございました。先生のおっしゃるのはその事ではございませんか」  桑島ドクトルは急に立って窓のそばへ行って外をながめた。未亡人に動揺した顔色を見られたくなかったからである。謎《なぞ》はまた濃くなった。そうするとあの晩謙三に狙撃《そげき》されたのは、いったいだれだったのであろう。 「奥さん、それではもうひとつお尋ねいたしますが、その晩の御主人はどういう服装でしたか。軍服でしたか。それとも……」 「むろん、軍服でございました」  桑島ドクトルはそこでくるりと振り返った。 「失礼いたしました。奥さん、妙な質問をするとお思いになったでしょう。ある理由からこの質問の真意は申し上げるわけにまいりません。どうかいまの事は水に流して忘れてしまってください。ところで御令息と細木原の娘のことですが、この決定は明後日の水曜日までお待ち願えませんか。その日が細木原のふた七日になっています。なんでしたら、その日恭助君に細木原の家まで来てもらってくださいませんか。そうすれば仏《ほとけ》の前で最後の御返事を申し上げましょう」  未亡人はじっとドクトルの顔をながめていたが、やがて無言のままていねいに頭を下げると、静かに部屋を出ていった。     四  謙三のふた七日の日は、朝から妙に薄曇の、陰気なお天気であった。  桑島ドクトルは今日いよいよ、最後の決定を下さなければならぬと思うと、しきりに心が騒ぐのだった。謎《なぞ》はまだ、すっかり解けたわけではない。薬王寺俊太郎の死については、細木原謙三になんの責任もないらしいことは、未亡人の話によっていよいよ確かになったが、しかし桑島ドクトルはそれですっかり安心してしまうわけにはいかなかった。  細木原謙三は薬王寺俊太郎こそ狙撃しなかったが、ほかに人殺しをしているのかもしれなかった。だが、それはいったい何者だろう。その男は故意に薬王寺俊太郎の身代わりをつとめたのだろうか。それともそこにわけのわからぬ間違いが演じられたのだろうか。いやいや、それよりも、狙撃されたその男は、その後どうなったのだろう。死んだとすれば事件が明るみに出ぬはずはないし、生きているとすれば、訴えて出ぬというのが訝《いぶか》しい。  桑島ドクトルがとつおいつ思い惑うて、まだ決心をつけかねているところへ、千駄《せんだ》ヶ谷《や》の明子から電話がかかってきた。 「小父《おじ》さまですの。駿河台の小父さまですの。わたし明子……すぐ来てください。爺《じい》やが……爺やが……」 「伍介《ごすけ》がどうかしたのか」 「ええ……今朝からとても苦しみ出して、……この前小父さまがいらした時、盲腸炎かもしれないとおっしゃったわね。……あれが、とても痛み出して……もう動かせないと思います……小父さま、手術自宅でできません?」 「よし、いますぐ行く。ああちょっと、時に恭助君は来ているかね」 「ええ、見えております。小父さま、早くいらして、……いまもし爺やにもしものことがあったら……わたし……わたし……」 「明さん、心配しなくてもいい、すぐ行くから待っておいで」  大急ぎで手術の用意一切をととのえて、看護婦を一人つれて千駄ヶ谷へ駆けつけると、明子は体がよじれるような心痛に真《ま》っ蒼《さお》になっていた。そのそばにつきそって、優しく明子を慰めているのが、恭助であった。ドクトルはひとめ見て、誠実そうないい青年だと思ったが、それ以上深く観察しているひまはなかった。 「明さん、伍介は?」 「奥の四畳半よ」  明子もついていこうとするのを、ドクトルは振り返って押しとどめた。 「座敷で待っていらっしゃい。なに、心配することはないさ。伍介は年寄りだが、日ごろ頑健《がんけん》なほうだから……恭助君、明さんを頼む」  ドクトルが看護婦をつれて奥へ去ったのち、明子と恭助は無言のまま、座敷に向かいあっていた。明子はもういても立ってもいられぬ風情《ふぜい》だったが、しばらくすると看護婦が出てきて、 「手術にとりかかりますが、決して御心配なさらないように」  そう言い捨てると、ふたたび小走りに奥へ入った。明子は唇《くちびる》まで土色になり、わなわな体をふるわせた。 「明さん、何も心配することはないさ。先生がついていてくださるんだもの。それより仏様にお線香をあげて、手術がうまくいくようにお祈りしたら……」 「ああ、そうでしたわ。いいことをおっしゃってくださいましたわ。お父さまはあんなに爺やを愛していたんですもの、きっと護《まも》ってくださいますわ」  それは息づまるような瞬間であった。明子は仏壇に線香をあげると、その前にぬかずいたまま身動きもしなかった。恭助は優しく、力強くそれを見守りながら、折り折りポケットから時計を出してはながめていた。十分——十五分——二十分——二十五分——三十分——ドクトルが病室へ入ってから、ちょうど三十五分たった時、明子は足音をきいてむっくりと顔をあげた。そしてドクトルの顔をひとめ見るなり、 「小父さま! 爺やは死んだ……」  と、おびえたような声をあげた。それほど桑島ドクトルの顔は固くこわばっていたのである。  だがドクトルは強く頭《かしら》を左右にふった。そして、強い感動で呼吸《いき》がつまったような声でこういった。 「いいや……伍介は大丈夫、……伍介は死なない。……伍介は盲腸炎ではなかったのだ。……伍介の腹にはこんなものが入っていた、……」  ひらいてみせたドクトルの掌《てのひら》には、血にまみれた小さい鉛の塊がのっかっていた。明子と恭助が驚いて眼をみはっていると、ドクトルは床脇《とこわき》の手文庫の中から古風なピストルを取り出し、それに伍介の腹から摘出したという鉛の塊を装填《そうてん》してみた。  弾《たま》はぴったりとピストルに合った。  不意にドクトルの眼から滂沱《ぼうだ》として涙があふれ落ちた。 「明さん、恭助君、いまこそ細木原謙三になりかわってきみたちの結婚を許す。二人とも早く伍介のところへ行って介抱してやりなさい。伍介は……伍介は……きみたちを救った。いや、きみたちのみならず、きみたちの父、細木原謙三と薬王寺俊太郎を救ったのだ。自分の生命を投げ出して……」 [#改ページ] [#見出し]  蝋《ろう》の首     一  私が中部岡山県のこの農村へ疎開してきたのは、去年の五月のことだった。それまで数ヵ月間、空襲の緊張の中に生きてきた私は、ここへ来ると、急にとがりきった神経を解きほぐされたような気楽さを覚えたのと、もうひとつには、はじめて住む農村というものが珍しくて、その当座暇さえあればステッキ片手に散歩に出かけたものである。  散歩ほど私に幸福感をあたえてくれるものはない。ステッキ片手に空想を描きながら、当てもなく歩いている時、私にはなんの欲望もなくなんの野心もない。ただもう孤独の楽しさが温かく私を包んでくれるのである。それは都会でもよかったし田舎《いなか》でもよかった。お天気のよい日はなおさらのことだが、雨の日はまた雨の日で、別の風情《ふぜい》が私を楽しませてくれる。思えば私の持っているこのささやかな道楽でさえ、ここ二、三年は思うように楽しむことができなかったのである。  幸い私の疎開してきた部落は、山懐《やまふところ》に抱かれているので、散歩の場所には事欠かなかった。そこにはあまり高からぬ山の起伏が、毛細血管のような複雑な地形をつくって、どこまでもつづいている。そしてその毛細管と毛細管のあいだには、岡山県の穀倉といわれる、吉備《きび》郡の沃野《よくや》がくいこんでいるのである。  こうしていたるところで山と平地が鋸《のこぎり》の目のように入り組み、絡みあい、格闘しているのであるが、ある日私が散歩の途次見つけたその不思議な屋敷跡というのも、そういう鋸の目の周辺にあった。  そこは赤松に覆われた丘の中腹をきりひらいた、二百坪ほどの地積なのだが、ひとめ見て火事のために焼け崩れた屋敷跡であることがわかった。しかもそこに残っている地形や、煉瓦《れんが》や、セメントの堆積《たいせき》から想像すると、以前そこにあったのは、この辺によくある藁《わら》ぶきの農家ではなく、かなり大きな洋館であったことがわかるのである。  私は間もなくこの洋館で、かつて恐ろしい殺人事件があったことを村の人から聞いた。私はこの殺人事件に非常に興味を覚えたので、よく村の人に尋ねてみたのだが、この事件の中にはたいへん異常な要素があって、それが農村の人たちの理解を超えているらしく、私を満足させるほど詳細に、この事件の顛末《てんまつ》を語り得る者はひとりもなかった。  私はなんとなくもどかしいような、いらだたしいような感じにとらわれたものだが、そのうちに終戦となって、この村へも若い人たちが続々と帰ってきた。そういう若い人たちの中にF君という人があった。  F君は岡山医大を仮卒業で出て入隊していた人だが、復員するとともにもとの学校へ帰っていた。そしてちょくちょく私の家へ遊びに来るようになった。この人は若い人にも似合わず非常に話題の豊富な人で、また座談も上手であった。この地方に残っている伝説だの、自分の見聞した犯罪事件などを、よく私に話してくれた。  ある日、私はふと思い出して、あの焼け跡のことをF君に尋ねてみた。するとF君ははたと膝《ひざ》をたたいて、 「そうそう、その話をするのをいままで忘れていたなんて! 先生、この話こそ材料になりますぜ。なに、百姓たちによくわからないのも無理はないので、この事件の捜査には非常に風変わりな方法がとられたんです。それをやったのは私どもの先生で、大《おお》河内《こうち》博士という人なんですが、その時の捜査資料はいまでも学校にとってあります。それは蝋《ろう》でこさえた二つの首なんですが、当時、犯罪捜査史上に一エポックを作ったとまで騒がれた代物《しろもの》ですから、先生など、ぜひ一度御覧になっておく必要がありますよ」  そう言ってF君が語ってくれたのが、次ぎに掲げるこの恐ろしい物語なのである。     二  それは昭和十二年の秋のことだった。  毎年この辺を襲う台風がその年もやってきたが、その台風の吹きすさむ真夜中ごろ、突如あの洋館から火を発したのである。  そこは一軒だけ、どの部落からも離れているうえに、近年にない大台風に村の人たちは早くから寝床に潜りこんでいたので、それと気がついた時には、洋館全体がもう手のつけられぬ大きな火の玉となっていた。しかもそこは水の手のいたって不便なところだったので、せっかく駆けつけた、若い威勢のいい消防団の兄哥《あにい》たちにも手の施しようがなかった。  それにまた、丘の上の赤松林に火が燃え移ろうものなら、山中が火の海になるのはわかりきっていたし、吹きすさむ台風に火の粉がとんで、あちこちから火の手のあがるのも警戒しなければならなかった。  それやこれやで洋館そのものは焼けるにまかせたかたちとなったので、夜明けとともに風がおさまったころには、完全にそこは焼け落ちてしまった。そしてその焼け跡から二つの死体が発掘されたのである。  いったい、この洋館の主は笠原謙三《かさはらけんぞう》といって、京大出の若い文学士であった。笠原家は近村きっての大地主であったが、謙三の父の代に岡山の町へ出てしまった。ところが謙三が京大を出ると間もなく、その父が亡くなったので、彼はここに自分の気に入った洋館を建てて、当時|娶《めと》ったばかりの若い妻とともに引き移ってきたのである。  謙三の妻は妙子《たえこ》といって、いつまでたっても女学生らしい口のききかたをする、どこかに淋《さび》しそうな翳《かげ》のある女だったが、しかしなかなかの美人であった。彼女はこの近在のものではなくて、同じ岡山県でもずっと離れた作州のものであるということであったが、謙三が彼女を娶るについては、親戚《しんせき》うちからかなり異議が出たらしい。  だから謙三がせっかく村へ帰ってきながら、昔から伝わった笠原家の大きな家へ入ろうとはせずに、そんな不便なところへ引っ込んでしまったのは、できるだけ小うるさい親戚どもからかけ離れて住むためであるらしかった。実際彼はこちらへ帰ってきてからも、村の人たちとはほとんどつきあいらしいつきあいもせず、ただ一人おいていた老婢《ろうひ》のほかには、一切他人を交えず夫婦二人きりのひっそりとした生活を、外部からかけ離れて営んでいた。  焼け跡から発掘された二つの死体は、それが発掘された場所から考えても、当然、謙三妙子の夫婦でなければならなかったが、しかしそれを決定することは容易なわざではなかった。というのは、それは死体という概念からはあまりにもかけ離れた代物《しろもの》、すなわち完全に白骨と化してしまっていたからである。  おそらく当夜の強風のために、炎が異常な高温度に達し、そのために死体の完全燃焼が行なわれたのであろうが、それにしても、どうして二人が、こういう大事にいたるまで眼覚めなかったものか、そのことが村の人たちに不思議がられた。  もっとも、その晩娘の家へ帰っていて、危うく災禍をまぬがれた笠原家の老婢お直《なお》さんの話によると、当時夫婦とも不眠症にとりつかれていて、毎晩多量のベロナールを服用していたというから、薬の効き目で熟睡していたことも考えられる。だが、それにしても二個の白骨に、少しももがいたような形跡がなく、座敷の中央に平行にならんで、仰臥《ぎようが》していたのが腑《ふ》に落ちなかった。いかに熟睡中炎に巻かれたとはいえ、多少はもがいたような跡があってもよさそうに思われた。  だが、そういう疑問は疑問として、その白骨が謙三夫婦以外のものとは考えられない以上、笠原家の親戚がそれを引き取ったのは当然の処置であった。そして妙子の実家である作州へもすぐに電報でこの由が報告されたが、その電報によって作州から駆けつけてきたのは、妙子の姉で志摩子《しまこ》という婦人であった。  志摩子も妹の無残な最期には驚いたが、不思議にも涙一滴こぼさなかった。いや、それのみならず通夜《つや》の席で、彼女はこんなことを言ったという。 「謙さんや妙子がこんな惨めな死に方をするのも無理のないことです。人に思いのあるものなら二人が満足な死に方のできないのはあたりまえのことで、私はいつかこんなことがあるだろうと思っていました」  いささか不謹慎とも見える志摩子のこの言葉は、すぐに村じゅうに伝わったが、やがてそれがこの事件について、少なからず疑惑の念を持っていた、木村という刑事の耳に入ったのである。  木村刑事がこの事件に疑惑の眼を向けたのは、前にも言った二個の白骨の姿勢のほかに、いろいろ理由のあることだった。まず第一に出火の原因だが、どうもそれに納得のいくような説明がつかなかった。風呂《ふろ》の火の不始末だの漏電だのという説があったが、それにしても合点のいかぬ節々が多かった。またその出来事が老婢お直さんの留守の晩に起こったことも、刑事の疑惑を深める一因だったが、さらにそれをいっそう刺激したのは、お直さんの証言である。 「旦那《だんな》さまと奥さんとは、それはそれは仲のよい御夫婦でございました。しかし、その仲のよさには、なんと申しますか、どこかに暗い影があるようで……私どもにはよくわかりませんが、とにかく尋常ではございませんでした。それに奥さんにはヒステリーと申しますのですか、そういう御病気がございまして、その発作が起こりますとすっかりおふさぎになって、死にたい、死にたいとおっしゃるのでございます。死んであの人のところへ早く行きたい……と、そればかりならまだよろしいのでございますが、どうかすると、あの人もあなたに殺されたのだから、いまにわたしもあなたに殺されるに違いないと、そんなことをおっしゃるのでございます。そんな時の旦那様のお顔の恐ろしさときたら……、いいえあの人というのがだれなのか、わたくしにもわかりません。奥さんもただあの人あの人とおっしゃるだけで、名前をおっしゃったことは一度もございません」  こういう話を聞いたやさきだったから、そこへまた志摩子の述懐を耳にすると、木村刑事はすぐに笠原の親戚へ赴いて、そこに泊まっている志摩子に面会を求めた。  志摩子というのは妹の妙子とはまるで型のちがった、がっちりとした、正義感の強そうな、そしてその正義心を振り回すのが好きなような、どっか女学校の舎監を思わせるようなタイプの女だった。  そういう志摩子の様子を見ると、木村刑事はすぐにこいつはいささか難物だなと思ったが、案に相違して、彼女は少しもためらうふうもなく、むしろ刑事の訪問を待ち設けていたような口吻《こうふん》でこんなことを言った。 「ええええ、そういうことを申しましたよ。申しましたとも。このことは笠原の親戚でも、みんな知っていることですから、何も隠す必要はございません。謙さんや妙子が満足な死に方ができないだろうと言ったのは、こういうわけでございます」  前にも言ったとおり謙三は京都帝大の出身だったが、学生時代彼には一人の親友があった。親友の名は河合|仙介《せんすけ》といって作州津山の近在のものであった。謙三と仙介は同県人のよしみのみならず、趣味にも性格にも共通したところがあったかして、その時分二人の仲は兄弟以上の親密さであった。  休暇ごとに謙三のほうから作州に遊びに行くか、仙介のほうからこちらへ遊びに来るか、とにかく二人は片時も離れがたいように見えた。  妙子はこの仙介の妻になるべき女だったのである。  それがいつどういうふうにもつれてきたのか、いつか妙子はしだいに謙三のほうへ接近していった。謙三のほうでもまた、作州へ遊びに行く目的が、いつか仙介よりも妙子に移っていたらしかった。しかし、その時分にはまだ妙子にも、仙介を捨てて謙三に走ろうというハッキリとした決心はついていなかった。ところがそこに恐ろしい事件が起こったのである。  ある年の春の休暇に、仙介は妙子をつれてこちらへ遊びに来た。そして三人で四国へ旅行することになった。  この辺から四国へ行くには、宇野から出る連絡船で高松へ渡るのが普通であるから、三人もむろんその道を選んだ。ところがその連絡船から仙介の姿が見えなくなったのである。  覚悟のうえで飛び込んだのか、それとも誤って転落したのか、船の中に姿が見えない以上、瀬戸内海へ落ちたものと考えるよりほかはなかった。むろんすぐに舟が出されて、その辺いったい隈《くま》なく捜索された。この捜索は半月も一月もつづいた。しかし、瀬戸内海というところは潮の干満の激しいところだから、とうとう仙介の死骸《しがい》は発見されずにしまった。 「そういうわけで仙介さんが死んだので、妙子は謙さんのお嫁になることになったのですが、私にはそれが非常に残念で、その時妙子に尼になれと勧めたものでございます。むろん私だって謙さんが手を下して仙介さんを殺したなどとは思っていません。しかしりっぱな若者が誤って落ちるなどというようなことは考えられません。これは覚悟の自殺にきまっていますが、ではなぜ仙介さんが自殺したのか、それは謙さんと妙子の仲を知ったからで、そういう意味からいえば、二人が仙介さんを殺したも同様でございましょう」  その翌日、木村刑事は本署と打ち合わせたうえで、いったん笠原の親戚へ下げ渡した二個の白骨を改めて岡山の医大へ持ち込んだのである。     三 「この白骨の鑑定に当たったのが、さっき言った大河内先生なんです。白骨と言ってもそれは土中から掘り出されたようなものと違って、なにしろ高温度で長時間熱せられたものだから、ちょうど火葬場から拾いあげたお骨《こつ》のようにボロボロになっている。ただ頭蓋《ずがい》骨だけは割合に完全に残っていたので、それから推して三十前後の男と女と鑑定された。しかし、先生はそれだけでは満足できなかったので、そこで非常に斬新《ざんしん》な方法をとられたのです。つまりその頭蓋骨に肉付けをされたのですよ」  頭蓋骨の肉付け——? 私は思わず眼をみはった。  もっとも頭蓋骨の肉付けということを、私は全然知らないわけではなかった。容貌《ようぼう》のわからなくなった死体の頭蓋骨に肉付けして、もとの顔を再生する。そしてそれによって被害者の身元から、ひいては加害者を捜査するという方法が、かつて外国でとられたということを何かで読んだことがある。しかしそういうことが果たして正確に、科学的にいくものかどうかハッキリ知らなかったし、ましてやこの日本でそれが行なわれたということは、全くの初耳だったので、私は非常に興味を覚えた。 「そして、それはうまくいきましたか」 「ええ、うまくいったのです。もっとも大河内先生が頭蓋骨に肉付けをされたのはその時がはじめてではなかった。先生は前にも一度身元不詳の白骨に肉付けを試みられたことがあるのです。しかし、その時はそこに再生された顔が、もとの顔に似ているかどうか自信がなかったので、すぐに打ち壊されたそうです。というのは、そこに再生された顔が、もとの顔に似ていないだけならまだしも、もし仮にほかの人間にでも似ていようものなら、どんな間違いが起こるかもしれない。それを心配されたんですね。しかし、先生はこの方法に強い確信を持っていられたので、いつか実際の犯罪捜査に用いてみたい。そう考えていられたやさきですから、とうとうこの事件で試みられることになったんです」  F君の話によると、一口に頭蓋骨の肉付けといっても、それはなかなか生やさしいものではないらしかった。頭蓋骨のあらゆる角度を精密に測定して、そのうえに肉付けをしていく。肉付けには大河内博士創成の、特殊の蝋《ろう》が用いられるらしい。むろん同じ人間でも肥えている時と痩《や》せている時とでは容貌が違ってくる。これは仕方がないから、普通標準の健康状態として肉付けしていくのだそうである。もっとも、その人間が肥満性の体質か筋肉質の体質かということは、頭蓋骨の形状を見れば、だいたい推定されるそうである。  大河内先生はむろん謙三も妙子も知らなかった。これは知らないほうがよいのであって、知っていると無意識のうちに、それに似せていこうとする危険が生まれてくるのである。  先生はまず女のほうから肉付けにとりかかった。この前試験的にやった時には、先生は指導されるだけで、実際には助手の北村博士に当たらせたのだが、ちょうどその時分北村博士が病気静養中だったので、先生自ら手を下してやられたのである。  やがて女のほうが完成すると、こんどは男のほうに取りかかった。ところが男の顔を再生していくうちに、先生はしだいに不安を感じてきたのである。と、いうのはそこに再生されていく顔が、どうもどこかで見たことがあるような気がしてならないのだ。しかもできていくにしたがって、ますますその感じは強くなり、やがて完成した時にはたしかに一度どこかで見た顔だと思われた。しかしどこで見た顔なのか、だれなのか、どう考えてみても先生には思い出せなかった。  そういうわけで男のほうには多少不安を感じたが、ともかく肉付けが完成したことを警察へ知らせてやると、すぐその翌日木村刑事が笠原家の親戚《しんせき》やお直|婆《ばあ》さんなど、謙三夫婦をよく知っている数名の者をつれてやってきた。そこで先生はまず女のほうの首から見せたが、それを見ると一同あっと驚いたそうである。それはいくらか肉付きに相違はあったが、明らかに妙子の顔に違いなかった。  これに確信を得たので、こんどは男の首を出して見せたが、このほうは失敗(?)だった。そこに再生された顔は謙三ではなく、だれも知らぬ男だったのである。  このことは大河内先生を少なからず動揺させたが、するとこの時横合いから、木村刑事が興奮した声でこう叫んだのである。 「先生、この顔は謙三に似ていないほうがいいのです。そのほうが私の想像に符合するのですよ。謙三は死んだのじゃない。死んだと見せてどこかに隠れているんです。あいつは妻の妙子を殺したがその犯跡をくらますために、自分も死んだと見せかけようとしやあがったんです。で、どこからか死体を持ってきて、自分の身代わりに立てておいて、そのうえで火を放って姿を隠したんです。先生、だからこの顔は謙三でないほうがほんとうなんです」  警察では木村刑事のこの報告をきくとにわかに色めき立った。肉付けされた女の首が、正確に妙子の顔を再生した以上、大河内博士の技術を疑うわけにはいかないのだから、木村刑事のこの思い切った推断も、十分根拠あるものとして、そこで全国にわたって笠原謙三捜索のための通牒《つうちよう》が発せられたのである。 「で、謙三はつかまりましたか」 「つかまりました。薬品で顔を焼いて、すっかり相好《そうごう》を変え、下関から関釜《かんぷ》連絡船に乗ろうとするところを取りおさえられたのです。だが、その前にもう一つ妙なことがあるんですよ」  それは謙三がつかまる少し前のことだった。大河内先生の弟子で、長らく病気静養していた助手の北村博士が、久しぶりで学校へ出てきたのである。 「先生はこんど頭蓋《ずがい》骨の肉付けをされたそうですね」  前に先生の指導で、試験的にそれを試みたことのある北村博士は、その結果に興味を感じて登校したのだった。 「ふむ、そのことだよ。それで私はいま非常に不安を感じているのだ。二つの頭蓋骨のうち女のほうはうまくいったのだが、問題は男のほうだ。私はどうもこの顔に見覚えがあるようで、それが不安の種なんだよ。見てくれたまえ。これだよ」  北村博士はその顔をひとめ見ると、非常に深い驚きの色を示した。 「先生、こ、これは……」 「え? どうした、どこか変なところがある?」  北村博士はそれに答えないで、深い興奮の色を見せながら、自分の机の引き出しを探っていたが、やがて取り出したのは一|葉《よう》の写真だった。 「これだ、これだ。やっぱり、同じだ。先生、先生が見覚えがあるとおっしゃるのはこの顔ですよ」  大河内先生もその写真をひとめ見ると、はっと呼吸を吸って大きく眼をみはった。  二人がそんなにも大きな驚きを味わったのも、全く無理のない話であった。  前に一度大河内先生が北村博士を指導して、身元不明の白骨に、試験的に肉付けを試みたことはさっきもお話ししておいた。その時先生は他に思わぬ迷惑をかけることを慮《おもんぱか》られて、でき上がるとその肉付けを崩してしまわれたのだが、その前に参考としてでき上がった顔を写真に撮影しておいた。いま北村博士が机の引き出しから取り出したのはその写真なのだが、なんとこんど大河内先生が肉付けされた顔と、前に撮影しておいたその顔とは、全く同一のものなのである。 「だが……だが……北村君、これはどういうことになるんだ。二つの頭蓋骨から同じ顔ができるなんて……」 「いいえ、先生、そうではありません。先生はお忘れですか。いまから一年ほど前にこの教室から、研究資料の白骨が一体盗まれたのを……あの時、盗まれた骨というのが、すなわち以前、試験的に肉付けをやったものです」 「ああ、そ、それじゃ……」 「そうです、そうです。あの時白骨を盗み出したのが、すなわちこんどの事件の犯人笠原謙三に違いありません。つまりそいつは一年前からこんどの殺人を計画していて、白骨を盗んで準備していた。その白骨が再びこの教室にもどってきて再び先生の手で肉付けされたのですよ。先生は何も御存じなかったにもかかわらず、こうして再現された顔が、二度とも全く同一のものとなったというのは、先生の肉付けの正確さを裏書きしていることになるじゃありませんか」  大河内先生はなんともいえぬ不思議な感じに打たれたが、ともかくそのことを警察へ報告しておいた。そこで警察で調べてみると、謙三はこの大学に友人があって、あの白骨の盗難があった時分、よくそこへ出入りしていたということがわかったのである。 「こうなると、いよいよ謙三の計画もはっきりし、そこで捜索にも拍車がかけられたのですが、そのうちに前にも言ったとおり謙三は下関で捕らえられました。ところが、こいつしぶとい奴《やつ》でしてね、あくまでも自分は笠原謙三ではない。そんな男は知らないと言い張るんです。なにしろ薬品ですっかり相好を変えてますから、親戚の者に突き合わせても、さあと首をかしげる。前科者じゃないから、指紋を引き合わせるわけにもいかない。警察でもすっかりてこずってしまったんですが、その時、例の木村刑事がふと思いついて、あの肉付けされた蝋《ろう》の顔を突きつけることにしたんです。そのショックによって尻尾《しつぽ》を出しゃあしないかという考えなんですね。で、最初まず妙子の首をつきつけた。これには謙三もちょっと驚いたらしいが、しかし、大河内先生が、頭蓋骨の肉付けをされたということは、当時の新聞に出ていたので、奴《やつこ》さんもあらかじめ、覚悟していたんでしょう。フフンといった顔色なんです。なんしろしぶとい奴で……そこでこんどはもうひとつの首、すなわち男のほうの首をつきつけたんです。そして、どうだ、これがおまえが身代わりに使った骸骨《がいこつ》の本人だぞ、と決めつけたんです。ところが……」 「ところが……?」 「ところが、そこに非常に妙なことが起こったんですよ。妙子の首には眉毛《まゆげ》ひとつ動かさなかった謙三も、男の首を突きつけられたとたん、それこそ、天地がひっくりかえったような、大きな驚きに打たれたんです。な、な、な、なんですって、こ、こ、こ、これが、あの骸骨の本人ですって……と、いうわけです」 「ふうむ、謙三はしかし、どうして、そんなに、その男の首に驚いたんですか。謙三はその首に見覚えがあったんですか」 「そうなんです。刑事もはじめは、謙三がなぜそんなに驚いたのか、いや、驚いたというよりも、むしろ恐怖に近い状態なんですから、このしぶとい男が、どうしてこうも恐れおののくのかと、かえってあっけにとられた感じだったそうですが、そのうちに、謙三がただひとこと、ここ、これは河合|仙介《せんすけ》……」 「え、え、え、な、なんですって!」  驚いたのは謙三ばかりではない。私もそこまで話をきくと、思わず座布団《ざぶとん》から腰をうかしかけたのである。 「それじゃ、肉付けされたその首は……?」 「そうなんです。前に連絡船から姿を消した、河合仙介の首だったんです。さすがにしぶとい謙三も、これにはよほど、大きなショックを感じたんですね。ただひとこと、これは河合仙介! と、叫ぶと、そのまま、気を失ってひっくりかえってしまったそうです。さあ、警察では大騒ぎになった。そこで早速、作州のほうから、仙介の親戚の者を呼びよせて、その首を鑑定させたんですが、だれの眼も同じことで、たしかにそれは仙介に違いないと言うんです。ところで、大河内先生の肉付けの正確なことは、前の妙子の場合でもよくわかっている。だから、こうして仙介の顔を再現したその頭蓋骨は、当然、仙介のものであらねばならぬということになってきます。そこで、また改めて、その骸骨の出所が調査されたんですが、だいたい、つぎのようなことがわかりました。なんでも、その白骨というのは、鞆《とも》の海岸の洞窟《どうくつ》に打ち上げられていたものを、漁師が発見して、それが回りまわって、大学の教室へ、研究資料として持ち込まれたものなんです。それは仙介が連絡船から姿を消してから、半年ほど後のことだったそうです。つまり、河合仙介は宇高連絡船から落ちて死んで、鞆の海岸に白骨となって打ち上げられた。それが大学へ持ち込まれたのを、謙三が盗み出して自分の身代わりに使ったというわけです。しかもその際、謙三は、自分の殺した妙子と、河合仙介の骸骨とを、ひとつ床にならべて火を放ったのですから、手もなく、昔の恋人同士をひとつに結んでやったも同じことです。さすがにしぶとい謙三も、こういう恐ろしい因縁には、よほど大きなショックを感じたのでしょう。それから間もなく、すらすらと、一切の犯行を自供したということですよ」  私たちはそこで、長いあいだ黙りこんでいた。何かしら恐ろしいもの、髑髏《どくろ》の肉付けというような、末梢《まつしよう》的な恐ろしさではなく、もっともっと深いところにある、この物語の神秘な恐ろしさに、私はしばらく、口を利くこともできなかった。 「ところで、河合仙介ですがねえ、その男はどうして連絡船から落ちたんですか。これもやはり、謙三に突き落とされたんですか」 「いや、それは謙三が突き落としたわけではなく、仙介が自ら飛び込んだものだそうです。つまり、謙三と妙子との仲を知って、仙介は絶望のあまり投身自殺をしたのですね。だからまあ、手を下さずとも、謙三が殺したも同じようなものです。妙子が許婚者《いいなずけ》の仙介を捨てて、謙三に心を寄せるようになった最初のきっかけは、謙三に、暴力をもって自由にされたためであったということです。謙三はそういうふうながむしゃらな、非人情的なところが昔からあったそうですが、そういう男と友人になったのが、仙介——ひいては妙子の不幸だったんですねえ」  それから、F君は最後に、こういうふうにこの話を結んだのである。 「ねえ、先生、この話にはどこか超自然なところ、昔の人にいわせれば、因縁とか、因果とかいう言葉で、片づけてしまいそうなところがあります。しかし、その因縁因果を現実に暴露《ばくろ》し証明することができたのは、やはり科学の力、大河内先生の精密な測定による、頭蓋骨の肉付けにあるということは間違いのないことですね。だから、やはりこれは科学の力、精密な数字の勝利であることを忘れないでください」 [#改ページ] [#見出し]  かめれおん     一  親愛なる狭山耕作《さやまこうさく》様。  この手紙を郵便受けの中に発見なすった時、あなたはきっと非常にお驚きになるでしょう。実際、こんなに近く住んでいながら、私がいま、手紙という形式をかりて、自分の考えを述べようとしていることは、たしかに妙なことにちがいありません。しかし私はいまあるのっぴきならぬ事情があって、どうしてもこれを手紙にしなければならぬ必要に迫られているのです。どうぞしばらく私の悪筆と悪文をもって、あなたの御清閑をおさまたげすることをお許しください。  さて、これから私が述べようとする事柄については、賢明なるあなたのことですから、すでに御想像がおつきのことと存じます。そうなのです。あなたの御想像のとおり、私はもう一度このあいだの事件、すなわち新聞でいうところの、「学校|横町《よこちよう》の殺人事件」について申し上げようとしているのです。  あの事件について、お互いに腹蔵のない意見を吐きあい、議論をたたかわすことのできたのは、まったく愉快なことでした。いつものような探偵《たんてい》小説についての議論ではなく、それがわれわれの身辺に実際に起こった事件であっただけに議論に熱があり、それだけに私は愉快に感じたのでした。  いままでのところでは、あなたのお説は突飛であり、空想的であり、探偵小説としてはたしかにおもしろいが、しかしあまりにも非現実的でありすぎる。それに反して私の説は、平凡ながらも現実に即しているということになっています。しかも警察当局でも、私と同様の見解をとっていますから、私の説のほうが、勝利をしめたかたちになっています。  ところが近ごろになって私は、この事件について、新しい、しかも非常に意外な事実を発見したのです。このことはあなたも私も、二人とも見逃していた、非常に珍しい、しかも犯人にとっては致命的な事実なので、私はいやでも、いままでの持説を修正しなければならぬ破目に立ちいたりました。そこでいま私はこうして禿筆《とくひつ》をふるっているしだいでありますが、そのことを申し上げる前に、もう一度、この事件を最初から見直したほうがよくはないかと思いますので、記憶をたどってあの日のことをここに書きとめておくことにいたします。  六月十二日、すなわちいまからちょうど一週間前の午前十時ごろ、学校横町をひとめで見渡す位置にあるミルクホール万来軒《ばんらいけん》へ、ふらりとやってきたのがあなた、すなわち狭山耕作氏でした。(以下しばらく三人称でおよびすることをお許しください)狭山氏が毎朝十時ごろにこの万来軒へやってくるのは、もう長いあいだの習慣になっていて、氏が湯浅謙介《ゆあさけんすけ》(すなわち私)と心安くなったのもこのミルクホールでした。狭山氏も湯浅謙介も、お互いに相手が自分と同じ探偵小説のマニヤであることを知ると、非常に親しさと興味をおぼえ、それからのちの二人がそこへ足を運ぶ気持ちの中には、互いに相手を待ちうける気持ちが、多分にあったことはいなむことができません。 [#挿絵(fig2.jpg、横215×縦438)]  さて、問題の六月十二日は、前日から引き続いて鬱陶《うつとう》しい雨が降りつづいていましたが、万来軒へやってきた狭山耕作氏は、いつものテーブルに腰をおろすと、新聞を読みながら、しかし心のうちでは、湯浅謙介の現われるのを待っているので、しじゅう向こうに見える学校横町へ眼をやっていました。  すると果たして五分もたたぬ間《ま》に、学校横町の奥から湯浅謙介が、カーキ色のレーンコート[#「カーキ色のレーンコート」に傍点]に長靴《ながぐつ》をはき、片手に大きな折り鞄《かばん》をさげ、洋傘《ようがさ》をさしてやってきました。湯浅謙介は万来軒の前まで来ると店の中をのぞいてみましたが、そこに狭山氏の姿を見つけると、 「やあ」 「やあ」  と、挨拶《あいさつ》をしました。  狭山氏は湯浅謙介の服装を見ると、 「どこかへ出かけるんですか」  と、尋ねました。 「ええ、ちょっと……しかしまだひまがあるからちょっと寄っていきましょうか。おっと忘れていた。自動電話まで行ってきます。すぐ帰ってきますから待っていてください」  そういって湯浅謙介は大股《おおまた》に、万来軒の前を通りすぎ、自動電話のほうへ行きました。そこで狭山氏は煙草《たばこ》をふかしながら、ぼんやり表の雨脚《あまあし》をながめていましたが、するといま湯浅謙介が立ち去った方角から、一人の男がやってきました。その男もやっぱり長靴をはき、レーンコートを着ていましたが、そのレーンコートの眼のさめるような鮮やかな紫色[#「眼のさめるような鮮やかな紫色」に傍点]がぱっと強く狭山氏の注意をひきました。ただ、幸か不幸かこの男は、洋傘《ようがさ》を前にかしげていたので、狭山氏には全然顔が見えなかったのですが、このことが後になって狭山氏、すなわちあなたのすばらしい推理の根拠になったのでしたね。  さて、その男は万来軒の前まで来ると、そこを左へ曲がって学校横町へ入っていきました。そしてその横町のいちばん奥にある家、すなわち湯浅謙介の隣家へ入っていくところまで、狭山氏はぼんやりながめていました。  それからどのくらいたったか——狭山氏の説によると、少なくとも五分はたっていたろうということですが、そのあいだじゅう狭山氏は、湯浅謙介が帰ってくるのを、いまかいまかと待っていたので、片時も表から眼をはなさなかったのですが、するとまた左のほうから一人の男が足速《あしばや》にやってきました。この男もまた、洋傘を前にかしげていたので、顔は見えなかったのですが、同じように長靴をはき、レーンコートを着ていました。ただし、そのレーンコートは色の[#「そのレーンコートは色の」に傍点]褪《あ》せた緑色の古ぼけたものでした[#「せた緑色の古ぼけたものでした」に傍点]。ところが妙なことにはこの男も、学校横町へ入っていき、そしてまた、路地のいちばん奥の家、つまりさっき紫色のレーンコートを着た男が入った家へ入っていったのです。  たった五分ほどのあいだに、二人の男が同じ家へ入っていったことについて、狭山氏はかなり強い好奇心をおぼえました。というのは狭山氏はその家の住人について、とかくの噂《うわさ》を耳にしていたからで、いまにひと騒動起こるのではないかと心待ちにしていると、果たして第二の男が入っていってから三分とたたぬ間《ま》にあわただしく一人の男がその家からとび出してきました。  それは紫色のレーンコートを着た男[#「紫色のレーンコートを着た男」に傍点]、すなわちさきに入った男でしたが、こんども洋傘を前にかしげていたので、狭山氏は顔を見ることができませんでした。その男は路地の入り口まで、ほとんど駆け出さんばかりにやってきましたが、万来軒の前まで来ると、急に歩調をゆるめ、しかしいよいよ傘《かさ》を前にかしげて、顔を隠すようにしながら、左のほうへ立ち去っていきました。そしてその男の姿が見えなくなるとほとんど入れ違いに、カーキ色のレーンコートを着た湯浅謙介、すなわち私がもどってきたのでした。……  狭山耕作様。  以上がその朝、あなたの目撃された全部でしたね。後になってあなたが告白されたところによると、その時にはそれらの事実に、特別の意味があるとも御存じなかったそうで、私が帰ってきたときも、あなたはにやにや笑っておられた。そして私にこうおっしゃいました。 「湯浅君、きみの隣りのお妾《めかけ》さん、相変わらずなかなか発展しますね」 「え? どうしてですか」  私が訊《き》き返すと、あなたは相変わらずにやにやしながら、 「いまね、二人の男が落ち合ったんですよ。顔は見えなかったが、体の格好からみて、いつも来る旦那《だんな》のようじゃなかったから、きっと二人とも、あの女の恋人たちにちがいありませんよ」 「へへえ、またひと騒動起こらなければよいが……」 「いや、それはもう起こっちまったらしいですよ。さきに来てたほうが、いま、ほうほうの体《てい》で帰ってゆきましたからね。こうなると心臓の問題ですね。押しの太い奴《やつ》が勝つ。しかしああいうのがお隣りじゃ、お宅の奥さん、しじゅう御迷惑をなさるでしょう」 「ええ、よくこぼしていますがね。今日は幸い実家《さと》へ帰っていて留守ですが……」 「ああ、そうですか。それはけっこうでした。朝っぱらからああいう男を引っ張りこむお妾さんを隣人に持っていちゃやりきれませんな」 「そういえばまあそうですが、慣れているせいか、女房の奴、案外平気ですよ、それに女房も女中も今日は留守で、……いや、それより今朝は大したことはないでしょう、あのお妾さん、熱があるって昨日から寝てるそうですから」 「そうすると、せっかく忍んできた男も御愁傷様ということになりますね。はははははは」  そういってあなたはおもしろそうにお笑いになった。そして、それから間もなく私はあなたとお別れして、銀座まで用達《ようたし》に出かけたのでしたね。     二  狭山耕作様。  私があの恐ろしい殺人事件についてはじめて聞いたのは、その日の四時ごろ、銀座の出先から帰ってきたときでした。  何気なくこの横町の入り口、すなわち万来軒の前まで来ると、近所の人が大勢立っているので、いったい何事が起こったのかと訊《き》いてみたところが、あのお妾《めかけ》さん、すなわち私の厄介《やつかい》な隣人であるところの、佐藤|加代子《かよこ》が殺されているということなので、私は大急ぎで家へ帰ってきたことでした。  帰ってみると実家《さと》へ行っていた女房も、午前中使いにいっていた女中もすでに帰っていて、二人ともうすぐらい家の中で、蒼《あお》くなってちぢみあがっていました。 「おい、どうしたんだ。お隣りのお妾が殺されているというじゃないか」 「あら、あなた、たいへんよ、たいへんよ。あたしもう怖くて、怖くて……」  女房はもうおびえきって、歯の根も合わぬくらいふるえています。 「いったいどうしたというんだ。おまえのようにふるえてばかりいちゃわからんじゃないか。お妾が殺されたというが、いったいそれはいつのことなんだ」 「ああ、そうそう、それについて何度も刑事さんが訊きに来ましたよ。あなた今朝何時ごろにうちをお出になりましたの」 「おれ……? おれがうちを出たのは姐《ねえ》やが出かけたすぐあとだから、たぶん十時ごろのことだったろうよ」 「まあ!」  と、女房は女中と顔を見合わせながら、 「あなた、その時、お隣りでなにか妙な物音がするのをお聞きになりませんでした?」 「いいや、しかし……するとお妾さんの殺されたのは……」 「ええ、十時前後のことだろうというのよ。でも、見つかったのはずっと後なのよ。あれ、一時ごろのことだったわねえ。ねえ、姐や」 「はい、さようでございます」 「あたし十二時過ぎに帰ってきたのよ。姐やはあたしより一足さきに帰っていたので、二人で御飯を食べていましたの。すると表を通る足音がしてそれがお隣りへ入っていきました。それはお隣りの姐やさんで、お隣りの姐やさんも、午前中お使いに出ていたんですわね。ところが姐やさんがお隣りへ入ったと思うとすぐに、きゃっという叫び声なんでしょう。それから、だれか来てえ……って呼ぶんでしょう。それであたし姐やと二人で、何事が起こったのかと思って駆けつけてみると……」  女房はそこでまた蒼くなってふるえます。 「なんだ、それじゃおまえたち現場《げんば》を見たのか」 「ええ……加代子さん、昨日から熱があるって寝ていたでしょう。そこをえぐられたのでしょうねえ。少しはだけた乳房のあたりから、真っ赤な血が流れていて、布団《ふとん》がぐっしょり……いやだわ、いやだわ。あたし、あの顔を思い出すと、とても今夜は寝られやしないわ。それにねえ、あなた、怖いことはそれだけじゃないのよ。もっと、もっと気味の悪いことがあったの」 「もっともっと気味の悪いこと……?」 「ええ、加代子さんの死体から眼をあげて、ひょいと向こうを見ると、縁側に洋服を着た男の人が、ブランと首をくくって……いやよ、いやよ、あたしもういやよ」  女房はそういって、いきなり私の膝《ひざ》に顔を伏せました。 「なんだ、それじゃ犯人は首をくくって死んでいるのか」 「犯人かどうかあたし知りませんわ。あたしもう夢中でしたけれど、三人の中ではこの姐やがいちばんしっかりしていましたわ。お巡りさんに知らせなきゃというので、それでお隣りの姐やさんが走っていったんです。そしたらすぐ、お巡りさんや警察の人が大勢来て……そしてお医者さんが調べたところが、二人とも死んだのは十時前後のことだろうというのよ」  ふうむーと、私がうなっているところへ、やってきたのは刑事でした。刑事は私が出かけた時刻を、どこかで聞いてきたとみえ、出かける前に何か物音を聞かなかったかと尋ねるのです。そして私が何も聞かなかったと答えると、出かけたのは何時か、正確な時間はわからないかと、重ねて尋ねました。そこで私はふと思い出して、 「そうそう、出かける前に気がつくと、腕時計が止まっていたので、そこの柱時計に合わせたので、よく覚えていますが、十時七分前でしたよ」 「なるほど、すると犯行の時間は九時五十三分よりのちのことになりますな。しかし、それよりのちとしても、あまり長くないはずですが、あなたはもしや途中でだれかに会いませんでしたか」  そこで思い出したのが、今朝万来軒であなたに聞いた話でした。刑事はその話を聞くと、眼を輝かせて、 「なるほど、なるほど、するとあなたが出かけた直後に、二人の男がこの家へやってきたんですね。そしてその一人が逃げるようにこの家から出ていったと……ああ、わかりました。最初の奴がつまり犯人なんですね。そいつが女を殺したあとで首をくくる。そのあとへ来た奴がそれを見てびっくり仰天、かかり合いになっちゃ詰まらんというので、ほうほうの体《てい》で逃げ出したんですね」 「いいえ、ところが刑事さん、逃げ出したのは最初に来た男だったそうですよ」     三  親愛なる狭山耕作様  実際私がこういった時の刑事の顔こそ見物《みもの》でしたよ。まったく第一の男が首を吊《つ》っていてこそ、刑事の説も成り立ちます。ところがその男が逃げ出して、第二の男が首を吊っていたとなると、どうしても不自然はまぬがれませんからね。なぜといって、あなたのお話によると、第二の男がやってきた時には、まだ第一の男がいたはずです。刑事の説のとおり、第一の男が犯人とすると、その男が女を殺してまごまごしているところへ、第二の男がやってきた。そこで、第一の男があわてて逃げ出した。そのあとで、第二の男が——この男は当然、第一の男、すなわち犯人を見ているにもかかわらず、それをひとに告げようともしないで、首をくくるというのは、たしかに不自然ですからね。  では、第一の男が犯人ではなく、したがってその男が逃げ出した時には、女はまだ生きていた。そして、それを殺したのは、第二の男であるということにしたら——ところが、それにもまた不合理があるのです。それはこういうわけでした。 「いったい、逃げ出したのが第一の男だとはどうしてわかっているのです。あなたの御友人ははっきり顔を見られたのですか」 「いいえ、私の友人は二人とも顔を見ていないのです。というのは、二人とも洋傘《こうもり》で顔を隠すようにしていたそうで……」 「それだのに、どうして逃げ出したのが第一の男だとわかりましたか」 「それはレーンコートの色でわかったそうです」 「レーンコート?」 「そうです、そうです。なんでも第一の男は眼のさめるような紫色のレーンコート[#「眼のさめるような紫色のレーンコート」に傍点]を着ており、第二の男は色の[#「色の」に傍点]褪《あ》せた緑色のレーンコート[#「せた緑色のレーンコート」に傍点]を着ていたそうですが、逃げ出したのは紫色のレーンコート[#「紫色のレーンコート」に傍点]を着たほうだったそうですよ」  それを聞くと刑事は眉《まゆ》をひそめてこんなことを言いました。 「それは妙ですね。首を吊ってる男はレーンコートなんか着ていない。しかも、隣家《となり》には緑も紫も、レーンコートなんて一枚もありませんよ」  さあ、これでまたこんがらかってきました。第二の男が犯人とすると、それは当然、第一の男が立ち去った後に演じられた殺人にちがいありません。まさか、眼の前で女を殺し首を吊るのを、第一の男が指をくわえて見ているわけはありませんからね。では、第一の男が立ち去ったあとで、第二の男が女を殺し、首を吊ったとすると、その男の着てきたレーンコートはどうしたかということになります。 「ひょっとすると、第二の男が女を殺し、首を吊ったあとで、まただれかやってきたのではありませんか」 「そして、第二の男のレーンコートを持っていったというのですか。レーンコートだけを。……女中の話によると、盗まれた品は何一つないといっているのですよ。かなり金目《かねめ》なものが手近なところにあるにもかかわらず、それには眼もくれず、レーンコートだけを持っていくというのはどういうわけです」 「さあ。……」  私も困って首をかしげました。 「いや、とにかく一度その友人というのに訊いてみましょう。果たして、逃げ出したのが第一の男か第二の男か、それをたしかめてみなければなりません」  刑事は第一の男犯人説を捨てかねているようでしたが、それから間もなく私の案内で、お宅を訪れ、あなたの口から話を聞いた時には、刑事のみならず私までペシャンコになってしまいました。あなたはその時きっぱりとこうおっしゃいましたね。 「いいえ、逃げ出したのはたしかに第一の男でしたよ。緑のレーンコートを着た男[#「緑のレーンコートを着た男」に傍点]が家へ入ってから三分ほどして飛び出してきたのは、たしかに紫のレーンコートを着た男[#「紫のレーンコートを着た男」に傍点]、すなわち第一の男でしたよ。その点、間違いはありません。それから、湯浅君の説によると、第二の男が首を吊ったあとで、だれかが来てそいつのレーンコートを持って帰ったのだろうということですが、それも間違いです。私は後に残った男が出てくるのを待ちうけて、顔を見てやろうと思っていたものですから、湯浅君が銀座へ行ってからのち、ずっとあの万来軒にがんばっていて、見張っていたんです。ふつうならば、表口しか見えないのですが、ひょっとすると裏から帰るかもしれないと思ったので、わざわざ万来軒の表のほうへ席を移して、両方とも見張っていたのです。そうです。湯浅さんの姐《ねえ》やさんや奥さん、それから殺されたお妾《めかけ》さんのうちの女中が帰ってくるまで、ずっと見張りをつづけていたのですが、第一の男が飛び出してからのち、だれ一人あの家へ出入りをしたものはありません。御存じのとおりあそこは袋路地になっていますから、向こうから出入りするわけはありません。もっとも同じ並びの家の人が、裏の路地を通って出入りをしたとすれば、私の眼につかないわけですが、まさかその人たちが、レーンコートだけを盗みにいくとはねえ。……」     四  親愛なる狭山耕作様。  あなたがあのすばらしい推理を聞かせてくだすったのはその翌日、私たちがまたあの万来軒で落ち合ったときでしたね。今でも私はあなたのあの愉快なお説を忘れることができません。その時あなたはこうおっしゃいました。 「湯浅君、私は昨夜、夜《よ》どおしかかってこんどの事件について仮説をたててみましたよ。刑事の第一の男犯人説、あなたの第二の男犯人説、ともに不自然なところや、不合理な点があるのは、あなたがたも認めていらっしゃるとおりです。そこで私はなんとかしてそこに納得のいくような説明はつかないものか、昨夜さんざん頭をひねってみたのです。そしてやっと自分でも満足できるような仮説をたてることができたのですよ」  それを聞いて私も体を乗り出しました。 「それはおもしろい。実は私もやってみたのですが、一つ、あなたのお説から聞かせてください」 「私の説というのはこうです。第一の男も第二の男も、同じ人間だったというのです」 「え? え? え?」  私はあまり奇抜なお説に椅子《いす》からずり落ちそうになりましたが、あの時、私の示した驚きは決して見せかけではなかったのですよ。 「狭山さん、それはいったいどういうわけです。あなたのお話では第一の男があの家へ入ったきり、まだ出てこないうちに、第二の男がやってきたということでしたが、そうじゃなかったのですか」  私がそういうと、あなたは意味ありげにじっと私の顔を見ていられたが、やがて皮肉な微笑《ほほえ》みを漏らすとこんなことをおっしゃいました。 「そうです。表からは出てきませんでしたが、裏というものがあります。私が裏の路地も見える位置へ席をかえたのは、それからのちのことですから、第一の男は表から入って裏へ出ることができたわけです。私がなぜこんなことを考えたかというと、あの時私が見たのは、レーンコートと長靴《ながぐつ》と洋傘《こうもり》以外に何もありません。御存じのとおり長靴だの洋傘だのというものは、どれもこれも似たり寄ったりのものです。ですからレーンコートをかえるだけで、りっぱに一人二役がつとまるということに気がついたのです。つまり最初に紫色のレーンコート[#「紫色のレーンコート」に傍点]を着てあの家へ入ると、そこでそのレーンコートを脱ぐ。するとその下には緑色のレーンコート[#「緑色のレーンコート」に傍点]を着ているのです。で、その緑色のレーンコートで裏口から路地を通って、万来軒の前の通りへ出ると、また万来軒の前を通って学校横町へ入り、もう一度あの家へ入っていく。そしてこんど出てくるときに、紫色のレーンコートを着てきたが、その時そいつはついしくじったのです。紫色のレーンコートを緑色のレーンコートの下へ着ればよかったものを、急いだためか、それともわざと事件をこんがらかすためか、紫のレーンコートを上へ着てしまったのです。それさえなければ刑事の第一の男が犯人説で、りっぱにこの事件は解決ということになったのでしょうがねえ」 「しかし、なんだってその男はそんな一人二役を演じたのですか」 「それはねえ。その時刻に殺人が行なわれたと見せかけるためだったのですよ。その男は、私がここにがんばっていることを知っていて、二人の男がそこへ入っていったということを見せつけようとしたのです。なぜ二人必要だったかといえば、むろん、首を吊っている男も、ほんとうは絞殺されたのでしょうからねえ。つまり一人が他の一人を絞め殺したと思わせるためには、どうしても二人の男が登場する必要があったんです」 「じゃあの首吊《くびつ》り男も自殺じゃなくて他殺だったのですか」 「そうですよ。いまにそれがわかってきますよ。いや、警察ではわかっていながら、わざと隠しているのかもしれません」 「なるほど、そうなってくると事態は変わってきますね。しかし、そうだ、首吊り男が他殺とすると、なにもあなたのように凝った考え方をしなくとも、第一の男犯人説でりっぱに解釈できるじゃありませんか。つまり第一の男が女を殺して逃げ出そうとした。そこへ緑色のレーンコートを着た第二の男[#「緑色のレーンコートを着た第二の男」に傍点]がやってきたので、これまた絞殺して首吊りと見せかけておいて逃げ出した……と、それでいいじゃありませんか」 「しかし、それなら第二の男の着て来た緑色のレーンコート[#「緑色のレーンコート」に傍点]はどうなったのです。なぜ犯人がそれを持っていったんです」 「あっ、なあるほど」 「それにもう一つ、第二の男があの家へ入ってから、第一の男がとび出すまでには三分とはかかっていないのですよ。あすこはいちばん奥まったところですから、格闘の音や悲鳴は聞こえなかったとしても、わずか三分、実際はもっと短かったような気がするんですが、その間《かん》に大《だい》の男を絞め殺し、首吊りの芸当までやらせるということはなかなかできるものではありません」 「そうそう、そういえばあなたはいま、殺人のあったのはあの時間でないようにいわれたが、では、実際はいつだったのです」 「それより少し前、すなわちあなたがまだ家にいられたころです」 「しかし、それなら多少私も気がつきそうなものだが……」 「湯浅君」  そこであなたは気味の悪い顔で椅子《いす》からぐっと体を乗り出された。 「きみがそんなにとぼけているのなら、ほんとうのことをいいますよ。僕の考えている犯人とは、湯浅君。きみですよ」 「え、え、え、なんですって!」 「きみも相当お芝居がうまいですね。そんなに驚いたふりをしてもいけません。そうです。女を刺し殺し、男を絞殺したのはきみなのです。それはきみが家を出る少し前のことだったのでしょう。ところできみはアリバイを作りたかった。と、同時にほかに犯人をこさえたかった。そこで思いついたのが僕のことで、いつも十時ごろから僕がここにがんばっていることを知っているものだから、それを利用しようとしたのです。で、どういうふうにしたかというと、きみはまず女を刺し殺し、男を絞め殺して、首吊りのまねをさせると、裏の路地づたいに、自宅へ帰り緑色のレーンコート[#「緑色のレーンコート」に傍点]を着る。その上に紫のレーンコート[#「紫のレーンコート」に傍点]を着る。この二つのレーンコートのうちどちらかは殺された男のものにちがいない。さて、きみはこの二枚のレーンコートの上に、さらにカーキ色のレーンコート[#「カーキ色のレーンコート」に傍点]を着るのです。そしてのこのこと学校横町から出てくると、万来軒にいる僕に挨拶《あいさつ》をしておいて自動電話へ入る。そこでまずいちばん上のカーキ色のやつを脱ぐと、すぐ引き返してきてあの家へ入る。これで紫色の男が第一にあの家へ入ったというわけで、脱いだカーキ色のやつは、折り鞄《かばん》に入れて、洋傘《こうもり》のかげに持っていたにちがいない。そしてそれから後はさっき言ったとおり紫色のレーンコートを脱ぎ、裏から抜け出し、もう一度緑色の男となってあの家へ入っていった。そしてまた紫色の男となって出てくると、万来軒の前を通りすぎ、自動電話にとびこむと、二枚のレーンコートは脱いで折り鞄におさめ、改めてカーキ色のやつを着て、のこのこと万来軒へやってきたのです。つまりきみはかめれおん[#「かめれおん」に傍点]のように、レーンコートで自由自在に色をかえ一人三役をつとめたというわけですが、どうです。湯浅君、ちがいますか」  実際あの時私は驚きました。あまりの驚きのためにしばらくは口も利けず、まじまじとあなたの顔を見つめていましたが、やがてやっと私はこういいましたね。 「狭山さん。なるほどおもしろいお説です。この私がかめれおん[#「かめれおん」に傍点]とは驚きました。しかしあなたがもう少し詳しくあの時の私の行動をお調べになったら、そんな説は成立しなかったはずです。紫色の男がやってきたのは、私が自動電話のほうへ行ってからすぐだったとおっしゃいましたね。ところがあの時私が自動電話へ行くと、御存じのKさんが中にいて、これがいくら呼び出しをかけても通じないのです。Kさんはいらいらしながらも、すまぬすまぬというふうに、いくども表に待っている私に頭を下げていましたから、きっと証人になってくれるでしょう。Kさんの電話がやっと通じて、用件を終わって出てくるまでには、五分以上もかかりましたよ。私があの時電話をかけるのに、あんなに長くかかったのはそのためなんです」  あなたはそれを聞くと、みるみる真《ま》っ蒼《さお》におなりになった。そこでまた私は言葉をつぎました。 「それからもうひとつ、あなたのお説の欠点は、紫色の男が裏口から抜け出して、緑色の男になって現われたというところで、それのできないわけがある。というのは、あの時あの裏の路地には汚穢《おわい》屋が来て汲《く》み取りをしていたのですよ。十時七分前に私が家を飛び出したのも、その匂《にお》いを嗅《か》いだからです。その汚穢屋は私が自動電話をかけ終わって、ここへ帰ってくるときもまだあの路地にいましたから、その男に訊《き》けば、緑色のレーンコートを着た男が、あの家の裏口から飛び出したか飛び出さなかったかすぐわかるでしょう」  あなたはいよいよ蒼《あお》ざめて、ふかくふかく首を垂れていらっしゃったが、やがてぐいっと首をあげると、 「湯浅君、すまない。つい調子に乗り過ぎて……」 「いや、いいんですよ。話としては非常におもしろかったですよ。かめれおん[#「かめれおん」に傍点]ですか。ははは! ところで、狭山さん、私には意見があるんですが、それをお話ししましょうか」 「どうぞ、ぜひ聴かせてください」 「私のはあなたほど奇抜ではありませんよ。つまり、紫色の男も緑色の男も実在の人物なのです。で、まず紫色の男がやってきて女を殺し首を吊《つ》る。はじめからその気でやってきたとすれば、女を殺すのに声を立てさせずにやるくらい造作《ぞうさ》ないでしょうから、近所に汚穢《おわい》屋がいても気がつかなかったのです。さて、その男が首を吊ったあとへ緑色の男がやってきて、この体《てい》を見て泡《あわ》を食って逃げ出したのですが、その時、そこに脱ぎ捨ててあった紫色のレーンコートを着ていったのです」 「なぜ——? そんなものを着ていったのです」 「それはこうです。第二の男が女の死体のそばへ寄った時、レーンコートに血がついたのです。緑の上に赤ですからこれは目立ちますよ。そのまま飛び出すわけにはいかない。といって脱ぎ捨てていっては後日の証拠になるし、雨の降るのにレーンコートをかかえて歩くのも変に思われる。そこでその血を隠すために、紫色のレーンコートを上に着ていった——と、こう考えるのですがどうでしょう」     五  狭山耕作様。  あの時あなたは、私の説に非常に感服してくださいましたね。そして率直に御自分の敗北をお認めになりましたね。しかもその後判明したいろいろな事実は、いよいよ私の勝利を裏づけてくれましたね。たとえばあの首吊り男ですが、あれは決してあなたのおっしゃったように、偽装された自殺、つまり、絞め殺してから、首吊りをさせたのではなく、ほんとうの首吊りであることがわかりましたし、またその男が紫色のレーンコートの持ち主であったことも判明しました。さらにまた彼が被害者佐藤|加代子《かよこ》に対して、報われざる、しかも非常に激しい恋情をささげていたこともわかりました。だから、その男が加代子を殺し、首を吊ったのだろうという私の説は、警察の意見とぴったり一致しましたが、ただいまだにわからないのは、緑色のレーンコートを着た第二の男で、したがってその男がなぜ、紫のレーンコートを着ていったかは、まだはっきりと確定されておりません。しかし、だいたい、私の想像どおりであろうということになって、警察でもその男の捜索については、あまり熱意を示していないようです。こうしてこの事件ではまったく私が勝ちをしめているように見えています。しかし、狭山さん、いまこそ私は白状します。私は完全に敗北したのです。  狭山さん。あなたはなぜあんなに欲ばって、私を一人三役に仕立てなければおさまらなかったのです。なぜ一人二役ぐらいで我慢なさらなかったのです。そうすれば勝利はあなたのものだったのに!  そうです。佐藤加代子を殺したのは私でした。そしてその時刻もあなたのお説のとおり、九時五十三分以前でした。なぜ私が加代子を殺したか、そのことだけは私も話したくありません。それはあまりにも汚らわしくあさましい話ですから。  さて、加代子を殺した私はレーンコートを重ね着して出かけたのですが、それはあなたがお考えになったように三枚ではなく二枚だけでした。すなわちカーキ色のレーンコートの下に着ていたのは緑色のやつでした。では、なぜそんなまねをしたかというと、それはこうです。加代子を殺して裏口から帰ってきた私は、服のボタンが一つもぎとられているのに気がついたのです。それは加代子を突き殺した時、もぎとられたものにちがいありませんが、これに気がつくと、私は非常に驚いてまた裏口から出ていこうとしました。ところが、その時路地口から入ってきたのが汚穢《おわい》屋です。万事休す、私はそれを見るとあわてて家へ引っ込みました。  汚穢屋が立ち去るまで待とうか、ところがこの汚穢屋ときたらとても尻《しり》の長い奴で、汲み取りがすんでからも、どうかすると半日ぐらい、その辺にうろついていることがある。加代子の家の女中がいつ帰ってくるかわかりませんから、とてもそれまでは待てません。では表から入ろうか——と、そう考えたとき、はたと、私が当惑したのは、狭山さん、あなたのことです。その時刻にはいつもあなたが万来軒にがんばっていて、私を待ってくださるために学校横町を見張っていらっしゃることを、だれよりも私がよく知っています。そしてあなたの強い好奇心と詮索癖《せんさくへき》を私以上に知っている者はありません。ですから隣りへ入るためには、どうしてもいったん家を出て、他の人間になって改めてやってくるより手がなかったのです。  狭山さん。かめれおん[#「かめれおん」に傍点]は色を変えました。しかしそれはあなたがお考えになったように、カーキ色、紫、緑の三色ではなく、カーキ色と緑色の二色だけでした。紫は私にも思いがけない道化《どうけ》役者が現われて、かめれおんの変色をいっそう複雑にしてくれたのです。  実際私が電話をかけ終わって、(この電話はあとで調べられた時の用意にほんとうにかけました。そしてKさんに、五分以上待たされたことも事実です。その間、いかに私がいらいらしたことか!)緑色のレーンコートになってあの家へ引っ返してきたとき、いつの間にやら一人の男がやってきて首を吊っていたのには、私もまったく肝をつぶしました。おそらく彼は、悲恋の相手の無残な最期を見て世をはかなんだか、それとも殉ずる気持ちでか自殺したのでしょうが、私にとってはもっけの幸いでした。そこで私は女の握っていたボタンを取り返すと、急いで外へ出ようとしたのですが、なんと気がつくと、レーンコートの裾《すそ》にべっとり血がついている。……  狭山さん。ですから私がこのあいだ申し上げたのは、推理でもなんでもなく、私の体験談でした。私はそのレーンコートを脱いで出るわけにはまいりません。なぜなら、その下に着ているのは、あなたのよく御存じの洋服なんですから。そこで私はあの首吊り男の着てきた紫色のレーンコートを上から重ねて飛び出したのです。その間《かん》三分。  狭山耕作様。  これで一切の事実を申し上げました。何も書き落としたことはないつもりです。それにしても、私がなぜこんなことを書いたのか、黙っていればわからずにすむ自分の罪状を、なぜあなたに書き送ろうとしているのか。——それは私が敗北したからです。あの恐ろしい、だれも気がつかなかった事実の発見が、私をこの敗北感に追いこんでしまったのです。その恐ろしい発見とは——?  狭山さん。佐藤加代子が殺された当時、熱を出して寝ていたことはあなたも御存じでしたね。そしてそれが死後になって、丹毒《たんどく》だったとわかったことも、あなたは御承知でしたね。その丹毒に私は感染しているのです。加代子を刺し殺したとき、あの女は苦しまぎれに私の腕に、深い爪跡《つめあと》をつけましたが、丹毒の病菌がそこから私の体内に侵入したのです。それに気づいた時の私の気持ち、——有頂天《うちようてん》になって勝利の踊りを踊っていた私は、突如足を踏み外して、地獄の底へ突き落とされたのです。いやいや、はじめから勝利などはなかったのだ。それは恐ろしい陥穽《おとしあな》の上にえがかれた、勝利の幻想にすぎなかったのだ。私はあの女の高らかなあざ笑い、笑って笑って笑い転げる声が聞こえるような気がする!  私は刑事に向かって、ここ一月《ひとつき》あまりあの女と、口を利いたことはおろか、顔を見たことすらないといっている。それだのに女と同じ病気に冒《おか》されていることがわかったら……そしてそこへ、あなたのあのすばらしい推理が持ち出されたら……?  狭山さん。では、さようなら。この手紙を投函《とうかん》すると同時に私は用意の毒薬をあおることにいたしましょう。だからあなたがこの手紙を御覧になるときには、私はすでに死んでいるでしょう。終わりにのぞんで、あなたの完全ではなかったがすばらしい推理に喝采《かつさい》を送ります。 [#地付き]湯浅謙介拝   [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  追伸 かめれおん[#「かめれおん」に傍点]は死んだらどんな色になるか御存じですか。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#見出し]  探偵小説     一  あの時は驚きました。あんなに怖かったことはほんとうに生まれてはじめてでした。いいえ、あたしばかりじゃございません。里見さんも野坂さんも真《ま》っ蒼《さお》におなりになって。……御存じでしょう。探偵《たんてい》作家の里見先生に洋画家の野坂さん、……ええ、あの人たちもごいっしょでしたが、三人ともふるえあがってしばらくは口も利けませんでした。いったい、なんの話だって? ええ、だからこれからお話ししますわ。聞いてちょうだい、こういう話なんですの。  あれはスキーが盛んだった時分のことだから、むろん戦争前の話ですよ。そうね、もうかれこれ十年も前になるかしら。その年の二月中旬のこと、あたし小説家のM先生の御招待で、東北線のN温泉へスキーにいったんです。先生はそこに正月から滞在していらして、つぎからつぎへとお知り合いを御招待なさいます。あたしがお伺いした時も、なんしろお顔の広い先生のことですから、いろんな方面の知名の方が、いっぱい押しかけていらして、それはそれはたいへんなにぎわいでございました。その時分あたしはまだ、レコードにも二、三回きゃ吹きこんでいない、いわば駆け出しの歌手だったんですけれど、それでも皆様、鮎川《あゆかわ》さん、鮎川さんとかわいがってくださいまして、一週間あまり実に愉快に遊んでいただきましたが、お話というのはその帰りのことですの。  それは忘れもしない二月二十五日のことでしたが、皆様お引き止めくださいましたけれど、あたしよんどころない用事があったのと、幸い、前に申し上げました里見先生と野坂さんが、三時の汽車で帰るとおっしゃるので、ごいっしょ願うことにしたのです。そこであたしたち三人、三時ぎりぎりの時間にN駅へ駆けつけて、プラットホームへ跳《と》び出したのですが、なんと汽車は雪崩《なだれ》のために延着で、一時間ほど待たなければならないというんです。  そこであたしたちいろいろ評議をしたのですが、宿へ引き返すのも億劫《おつくう》ですし、といってその辺には気の利いた憩《やす》み場所は、一軒もございません。駅の前にカフェーみたいなものもありますが、きたならしくって。……そこでとうとう、待合室で待とうということに衆議一決いたしました。  待合室たって改札口の前にあるのではなくて、ほら、プラットホームによくあるでしょう。長方形の箱みたいなのが。……あれなんですが、幸いそこにはストーブもあるし、今とちがって石炭なども山のように積んであります。ただ、どういうわけか駅のほうへ向いた窓ガラスが全部こわれて、ベニヤ板が押しつけてあるので、待合室の中が妙に薄暗くていやでしたが、そんなことをいっている場合ではございません。なんしろ寒いものですから、あたしたち中へとび込んでストーブにかじりついたんですが、その時はじめて、待合室の一|隅《ぐう》に男の人が二人、座っていることに気がついたのです。前にも申し上げましたように、汽車が一時間も延着することがわかったので、たいていの人はいったん駅から出ていったので、その時プラットホームに残ったのは、あたしたち三人きりかと思っていたのに、そこに男の人が二人黙って、肩すり寄せるようにして座っているものですから、ちょっと驚きました。  その二人というのは待合室のいちばん奥、——その待合室は両方出口になっていないで、袋みたいになっているのですが、——その袋のいちばん奥の隅《すみ》に、いまも申しましたとおり、肩をすり寄せ、体をくっつけるようにして座っているのですが、どういうものか、二人とも、妙にしいんと押し黙っています。向こうの隅にいるほうは洋服を着た男でしたが、帽子をまぶかにかぶり外套《がいとう》の襟《えり》をふかぶかと立てて、その襟の中に半分以上も顔を埋めているのでどういう人物なのかよくわかりません。そのこちら側にいる人は、二重回しを着た若い男でしたがこれまた深くうなだれて、まるでもう一人のほうにもたれるようにして腰を下ろしているのでした。しかし、その時はとくにその二人に注意を払ったわけではなく、ストーブのおかげでぬくもりが回ってまいりますと、そろそろ軽い冗談のやりとりが始まりましたが、どういうものか里見先生に落ち着きがございません。なんとなくいらいらしていらして、とかく話もとんちんかんなんです。そこであたしがどうなすったのかとお尋ねしますと、先生、お笑いになっておっしゃるのに、 「いや、失敬失敬、実は原稿の締め切りに追われていましてね、それでまいっているんですよ。Mさんの宿で書こうと思っていたのがあの状態で、すっかり遊んでしまったでしょう。だからこれから東京へ帰って、大急ぎで書かなければと思っているもんだから、つい……」 「あら、それじゃあたしたちが押しかけていったのが悪かったのね。ごめんなさい、先生」 「いや、そんなことはありませんよ。柄《がら》にもなくあんなところで書こうというのが心得ちがいだったのです」 「作家もいいが締め切りにはだれでもまいるらしいね。われわれも秋の展覧会前になると痩《や》せるが、作家はそれが毎月あるわけだね」  野坂さんも同情したようにおっしゃいます。 「そして筋はできていらっしゃいますの。ほかの小説とちがって探偵小説は筋を立てるだけでもたいへんでしょう」 「まったくだ。探偵小説というやつはいわば全行《ぜんぎよう》伏線だからね。里見君、あれはすっかり頭の中でまとめてから筆を執《と》るのだろうね」 「それにトリックというものがございますわね。あたしどもすばらしいトリックにぶつかると、やられたあと思いながらも、しみじみ敬服してしまいますわ。あれはよほど苦労でしょうね」 「そうですねえ。探偵小説というものは、こしらえた文学ですから、ぼんやり考えてたんじゃまとまりませんね。脳細胞を総動員して、ああでもない、こうでもないと練るんですから、苦労といえば苦労ですが、探偵作家はみんなそういうことを考えるのが好きだから……いや、そういうことを考えるのが好きな連中が、探偵作家になるんですから、はたでお考えになるほどでもないかもしれませんねえ」 「で、何かテーマはあるのかい」 「それはあるんだ。こっちへ来て拾ったんだがね。きみたちも知ってるでしょう。ほら一月《ひとつき》ほど前、この土地にあった女学生殺し……」  そういえばそんな話を宿で聞いたように覚えておりますが、詳しいことは存じませんでした。野坂さんは全然知らぬとおっしゃいます。 「そうかな、それじゃきみたちが来る前だったかしら。S新聞の通信員が来て、詳しい話をしてくれましたが、このへんじゃたいへんな騒ぎだったらしい。もっとも犯人もつかまったので、近ごろでは一段落ついたかたちで、新聞も騒がなくなりましたが……しかし僕のは小説だから、犯人はわざとちがった人物にしてあるんですよ。つまり事件の発端《ほつたん》だけを事実にかりて、あとは空想というわけですね」 「それじゃ犯人もきまっているのね。そしてそれは実際の事件の犯人とちがっているのね。おもしろいわ、先生、その話を聞かせていただけません、あたし探偵小説というものが、どういうふうにしてできるものか、前から一度お伺いしたかったのよ。どう? 野坂さん?」 「それはおもしろい。里見君、汽車が来るまで、ひとつその話をしてみないかね」 「きみたち聞いてくれる? それはありがたい。僕はいつでもだいたい話がまとまったところで、だれかに聞いてもらうことにしているんだ。話をしてると星雲状態にあるやつが、しだいにはっきりした形になってくるからね。じゃ話すから聞いてくれたまえ。いや聞くばかりでなく、あやふやなところがあったら助言してくれたまえ。きみたちなかなか探偵小説通らしいから、三人でひとつ合作といこうじゃないか」  と、そういうわけで里見先生がまずお話しなさいましたのが、その当時N温泉を騒がせた女学生殺しの顛末《てんまつ》でした。     二 「一月十七日というから約|一月《ひとつき》ほど前のことになりますね。その日は月曜日だったそうだが、その月曜日の午前十一時ごろ、ほら、ここから五町ほど西に見える山の出っ鼻。あそこで線路が急カーブしてるでしょう。あのカーブを向こうへ曲がったところの線路から南へ約三町ほど行ったところに杉《すぎ》の森《もり》神社というのがある。われわれもいまその神社の前を通ってきたわけだが、その杉の森神社の境内《けいだい》で、お嬢さんが一人絞殺されているのが発見されて大騒ぎになったんです。その時分大雪が降りつづいて……」 「ふふふ。そら始まったぞ。雪、雪、雪とね。それがトリックになるんだろう」 「そのとおり。僕の小説ではこの雪が大きな意味を持っているので、念のためにS新聞の通信員に訊《き》いてみたんだが、雪は前々日の土曜日の午前から降りはじめ、日曜日いっぱい降りつづき、死体の発見された月曜日の明け方ごろまで降っていたそうだ。だから死体が発見された時も、すっかり雪に埋まっていたというが、さてそのお嬢さんの身元、これはすぐわかった。この土地でも素封《そほう》家ともいうべき……名前は仮に田口家としておこう。その田口家の娘さんで、那美《なみ》さん……これも仮名《かめい》だよ。その田口那美さんなのだ。ここでついでに那美さんのことを説明しておくが、上りで行くとこの次ぎの駅にT市というのがある。那美さんはそのT市にある女学校の専修科の一年生なんだが、かわいい顔立ちの美人だったそうだ。頭はまずふつうで、性質は明るい、朗らかな、しかしどっちかというと軽はずみなほうだったらしい。その那美さんが殺されていたんだが、田口家でも前日の日曜日から、那美さんの行方を探していたんだ」 「つまり那美さんは日曜日から失踪《しつそう》していたんだね」 「いや、そうじゃない。厳密にいうと那美さんの失踪したのは土曜日の晩だが、田口家ではそれを日曜日の晩まで知らなかった。というのはこういう事情がある。NからTまで汽車でかっきり三十五分、だから那美さんもふだんは汽車通学しているが、冬になると汽車のダイヤが狂いやすいので、毎年十二月から三月までT市にある遠縁の未亡人のところに下宿することにしている。だから田口家では那美さんは、その未亡人のところにいるとばかり思っていたところが、日曜日の晩方、T市から那美さんの先生がやってきた。仮に古谷《ふるや》先生としておくが、この人はT女学校の教頭で、謹厳をもってとおっている。田口家とは前から付き合いがあって、那美さんの保証人になっているくらいだが、この人が日曜日の晩方、わざわざT市からやってきたのは、当時田口家の主人が中風《ちゆうぶう》で寝ていた。それを見舞いに来たのだが、病人に別に変わったこともないのを見ると驚いた。さらに、那美さんが家へ帰っていないと聞くといよいよ驚いて、ポケットから出してみせたのが一通の電報。それにはチチキトクスグカエレとあって、那美さんの兄さんが土曜日に、T市の那美さんに打ったものなんだ」 「まあ! それが偽《にせ》電報だったのね」 「そう、田口家の主人、病気は病気だが別に変わったこともないのだから、そんな電報打つはずがない。さて古谷先生だが、そういう電報を持参していたものの、土曜日に那美さんに会ったわけじゃない。ではどうしてその電報が古谷先生の手に入ったかというと、それはこうなんだ。その土曜日は一月十五日だから藪入《やぶい》りで、古谷先生のうちでも婆《ばあ》やが自分の家へ帰っている。夜おそくでないと古谷先生の家へ帰らない。当時先生は婆やと二人暮らしだったんだね。そこで先生早く帰っても仕方がないので、学校前のうどん屋で晩飯を食ったり、二、三軒古本屋をまわったりしたあげく、散髪屋へ寄った。そしてしばらく順番を待っていたが、そのうちにふと今夜は那美さんが勉強に来る晩だということを思い出した。那美さんはだいぶ前から毎週土曜日に、先生のところへ勉強に来ていたんです。そこで先生、散髪もしないで家へ帰ってきたのだが、それが八時ちょっと前。すると婆やが一足さきに帰っていて、先生、私が帰ってくると玄関の格子《こうし》に、こんなものがはさんでありましたと、差し出したのがその電報なんだ」 「なるほど、勉強を休むという言いわけに、那美さんが電報を残していったんだね」 「そうなんだ。電報の裏にもそのことが書いてある。『先生、こんな電報がまいりましたから、八時の汽車でNへ帰ります。今夜の勉強はお休みにしてくださいませ、那美より』と、それは鉛筆の走り書きで、何か木目《もくめ》のあらい板の上で書いたとみえて、鉛筆の線がでこぼこしているんだが、たしかに那美さんの筆跡にちがいない。そこでこういうことになるんだ。電報を受け取った那美さんはT駅へ駆けつける途中、古谷先生の家へ寄った。那美さんの宿から駅へ行くには、古谷先生の近くを通ることになるんです。ところが先生の家にはだれもいない。格子《こうし》にも錠がおりている。そこで格子わきの壁板に電報を押し当てて、鉛筆の走り書きをして、それを格子のあいだにはさんでいったということになるんです。その格子わきの壁板というのが、木目のあらい杉《すぎ》の焼き板でできているから、さてこそ鉛筆の字が妙にでこぼこしているわけです」 「なあるほど、しかし鮎川さん、気をつけなさいよ。先生いやに話が細かいが、ここらあたりがトリックかもしれないよ」 「ええ、もち、謹聴してるわよ」 「はっはっはっ。そう先回りをしちゃ困る。ここいらはまだ事実譚で、僕はただ正確に話しているだけなんだよ。そういうわけで古谷先生は、土曜日の晩那美さんに会っていないが、電報を見ると那美さんの父が危篤とある。そこで心配になったものだから、日曜日の午《ひる》過ぎになって那美さんの宿をしている未亡人のもとへ様子を訊《き》きにいった。ついでだからここで土曜日の夕方、電報が来たときの模様をいっておこう。その電報は五時半ごろに来たそうで、その時那美さんが晩飯を食わずにとび出したら、五時五十五分という下り列車に間に合っていたんだが、ちょうどお膳《ぜん》についたところだったので、一汽車おくらせることにして宿を出たのが六時ちょっと前、むろん八時の汽車には早過ぎるのだが、古谷先生の家へ寄らなければならんので早目に出たんだそうだ。本来ならばこの時未亡人も同行するはずなんだが、彼女はあいにく一週間ほど前から、風邪《かぜ》で寝ていた。それではよろしく、変わったことがあったら知らせてください、とそういって那美さんを送り出したのだが、今もって何もいってこない。実は自分も行きたいのだが、このとおりの風邪ひきで……と、そういう未亡人の挨拶《あいさつ》を聞いて、それでは私が行ってみましょうと、そこで古谷先生、夕方の四時の汽車でTをたってNへ来たというわけだ」 「それが、つまり、日曜日のことなんだね」 「そうなんだ。そこではじめて偽《にせ》電報のことがわかり、田口家では大騒ぎになった。もしやというので兄さんや嫂《あによめ》は心当たりをたずねてまわる。むろん冬のことだからあたりはすっかり暗くなっていたが、そのうちに古谷先生が思いついたのは、昨夜八時の汽車に乗ったとすれば、八時三十五分にN駅へ降りてるはずだ。駅へ行って訊いてみましょうと、雪の中をとび出した。ところがあいにくスキーシーズンの最盛期の、しかも土曜日の晩ときているから、おびただしい客が下車している。三つの改札口がいっぱいになったくらいで、だれも那美さんが降りたかどうか覚えている者はない。古谷先生はなおも駅の近所を小一時間も訊いてまわったが、どこでも要領を得ないで帰ってくると、兄さん嫂さんも蒼《あお》い顔をして帰っている。その晩、古谷先生も田口家へ泊まることになって、一同不安な一夜を明かしたが、翌日の月曜日、午前十一時になって那美さんの死体が見つかったのだ。これを発見したのは近所の者で、場所は杉の森神社のいちばん奥の、玉垣《たまがき》の根元に雪に埋まっていたそうだ。そこで大騒ぎになって、死体を雪の中から掘り出したところが、さっきもいったとおり扼殺《やくさつ》されている。ところで那美さん、土曜日の晩T市から汽車に乗ったことはたしかなんだ。というのは一月十五日の印のある切符で鋏《はさみ》の入ったやつが蟇口《がまぐち》の中に入っていたから」 「あら、先生、でもそれはおかしいじゃありませんか。切符は改札口で渡すはずでしょう」 「ごもっとも。しかし那美さんは村のもので顔がきいてるんですよ。むろん列車がすいていれば改札口から出たんでしょうが、いまいったとおりの大混雑、そこで奥の手を出して、非合法的に改札口以外のところからとび出したんですね。小さい駅ではよくある図だが、ただし実際に那美さんが汽車に乗っているところを見たものはない。なにしろ土曜日の晩だから、T駅も列車の中も大混雑の超満員で、だれ一人那美さんの姿に気がついたものはないんだ」 「そこらが怪しいところだね」 「小説だとそういうことになるが、実際の場合にはありがちのことだから、結局那美さんは土曜日の晩八時の汽車でNへ帰った。そして駅から家へ帰る途中で殺された。とこういうことになっている。あの杉の森神社というのが、駅から那美さんの家へ帰る途中にあるんだ」 「すると偶然途中で出会ったか、待ち伏せしていたか、とにかく犯人が神社の奥へひきずり込んで殺した、ということになるわけだね」 「まあそうだが、偶然出会ったというのはどうだろう。あの偽電報からみても、これは相当計画的な事件と思うがねえ」 「そうそう、電報のことがあったわねえ。で、電報を打った人というのはわかりませんの」 「それがねえ。電報は土曜日の午前十一時五十分N郵便局で受け付けているんだが、郵便局は知ってるでしょう。駅のすぐ隣りだから。ところがその時刻には郵便局は満員でね、局員もよく覚えていないんだが、ただ青い雪よけ眼鏡をかけてマスクをした、色の白い青年だったような気がするといっているんです」 「でも先生、人相はわからなくても、局には頼信紙が保管してあるでしょう。それで電報を打った人はわからなくって」 「ところがねえ、その頼信紙は鉛筆で書いてありましてねえ。元来鉛筆の字というやつはいちばん筆跡鑑定がむつかしいんだそうです。それに電文だから片仮名でしょう。ごていねいにその電報は差出人の住所氏名まで片仮名なんですが、この片仮名というのがまた鑑定がむつかしい。結局、だれの字かわからないんですが、ただこれでわかるのは犯人が局のペンを使わずに、自分の鉛筆を使ったらしいこと。それから田口家の事情をかなりよく知っていること。というくらいで、この電報は大して役に立たなかった。さて電報はこれくらいにしておいてこんどは死体のほうに移ろう。まず死後の推定時間だが、だいたい四十時間から三十五、六時間ということになっている。で、死体の発見された月曜日の午前十一時ごろから逆算すると、土曜日の晩の七時ごろから十二時ごろまでの犯行ということになる。もっともそれだけの時間がたつと多少の誤差はまぬがれないが、だいたい今までに知られている事実に一致するんだ」 「死体はむろん解剖したんだろうね。御婦人の前でなんだが、暴行されたような形跡は……」 「それはないんだがもっと驚くべきことがある。那美さんは妊娠三ヵ月だったそうだ」 「あらまあ、スキャンダルねえ」 「そうですよ。そこで当局では妊娠の相手が怪しいというので調べたところが、これはすぐわかった。このNで田口家同様の素封家、名前は仮に秋山としておこう、その秋山の次男で、次男だから次郎とするかな。この次郎君は東京の私立大学の学生だが、これが以前から那美さんとたいへん仲がよろしい。田舎《いなか》のことだから評判になっている。田口家でも秋山家でもこのことはよく知っているんだが、似合いの縁組みだから黙認のかたちをとっている。去年の秋の十月の二日つづきの休みにも、次郎君は帰省《きせい》して、那美さんをハイキングに引っ張り出したりしている」 「去年の十月というと、そうね、一月十五日ごろで約三|月《つき》になるわね。だけど次郎さん、那美さんとそこまで深入りしていたのかしら」 「それは次郎君も認めているんですよ。ただし、それは去年の夏休みに一度あったきりで、秋に帰省したときには那美さんの態度がすっかり変わっていて、そんなことは絶対になかった。だから妊娠六ヵ月というのならともかく、三|月《つき》じゃ自分に責任はないと主張するんです」 「おやおや、それが事実とすると、いよいよスキャンダルだね。ところで次郎君の当夜の行動はどうなんだね」 「それがいけないんだよ。次郎君は冬の休暇でまだこちらにいたが、土曜日の晩には、ここへ滑りに来ている友達の宿をたずねてしたたか酒をあおっている。そのときの次郎君の口吻《くちぶり》によると、最近那美さんとの仲がうまくいっていなかったらしい。失恋だ失恋だとか、このままでは捨てておかぬとか、だいぶ不穏の言辞を弄《ろう》している。そういえばこの冬はあまり行き来もせず、二人のあいだに溝《みぞ》ができていたらしいことは家人も気がついていたそうだ。さてその晩の次郎君だが、したたか酒をあおったあげく、友人のとめるのを振り切って、宿をとび出したのが八時二十分ごろ、そして九時過ぎに途中でころんだといって、泥まみれになって、駅前のカフェーへとび込んできて、そこでまたしたたかあおっていったというんです。次郎君は柔道三段の、腕力は強いほうだが、酒は日ごろあまりたしなまなかったというのに。……」 「それで次郎さんを郵便局の人につきあわせてみたのかしら」 「それはやったそうです。雪よけ眼鏡やマスクを次郎君にかけさせて。……しかしどうもはっきりしないんです。年格好は似ているが、色はもう少し白かったようだというんです」 「遺留品は?」 「それがあればいうことはないんだが、……なんしろ雪が月曜日の明け方ごろまで降っていたので、足跡だって残っちゃいない。その代わり那美さんの持ち物からなくなっている品が三つある。まず第一に鉛筆。那美さんは古谷先生のところへ置き手紙をしているんだから、当然鉛筆を持っているべきはずのがない。第二にベレー帽。これは未亡人の家を出るときかぶっていたというんだがそれがない。それからもう一つ妙なものがなくなっている。というよりは数が減っている」 「なあに、それは?」 「林檎《りんご》ですよ。T市の宿を出るとき、未亡人が林檎を十個、女のことだから数をかぞえて見舞いにことづけたのが、死体のそばにあったふろしき包みには、数が減って九個きゃない」 「あら、おもしろいわね」 「いや、ところが大しておもしろくもないんです。林檎はちゃんと那美さんの胃袋に納まっていた」 「あらまあ! どこで食べたのかしら」 「汽車の中で食べたんだろうということになっている」 「あら、だっておかしいわ。その汽車超満員だったというんでしょう。そんな中で若い娘が、林檎をかじれるかしら」 「そうだそうだ。どうせ彼女も立ちん棒だったんだろう」 「そういえばそうだが、絶対にかじれんということはないね。現に那美さんの胃袋に林檎が納まっているんだから仕方がない。さて、たいへんごたごたしたが、これが僕の知っているすべてなんだ。警察では次郎君が犯人だということに確信を持っている。で、何か質問はありませんか」 「あります。土曜日の晩の古谷先生に現場不在証明《アリバイ》がありますか」 「はははは、来たね。いや、それはあるんだ。完全に。警察でも土曜日の晩の古谷先生の行動を調べているが、それによるとこうだ。先生は四時半まで学校にいる。それから学校前のうどん屋でうどんを二杯食べてそこを出たのが五時ちょっと前。それから六時半ごろ散髪屋へやってくるまでに、三軒の古本屋をまわっている。散髪屋では七時半過ぎまで順番を待っていたが、結局散髪はしないで家へ帰ったのが八時ちょっと前。そこで婆やに電報を渡された。それから餅《もち》を焼いて食べたりしたが、那美さんが来ないなら、友人のところへ行って碁を打ってこようと家を出たのが八時半、友人の家へは九時十分前についているが、そこで十二時過ぎまで碁を打っている。ところが下り終列車の通るのを聞いて、おやもうそんな時刻かと家へ帰ったのだが婆やはもう寝ていたので、自分で戸締まりをして二階へあがって寝た。と、そういうわけで古谷先生は土曜日の晩、絶対にNへは行けないことになっている」 「なあるほど」 「得心《とくしん》がいきましたか」 「はい、わかりました。先生。ははははは、それじゃいよいよきみの小説の番だ。さあ、承ろう。きみの小説ではだれが犯人なんだい」  里見先生はそこでゆっくり一服おすいになりました。野坂さんとあたしとは、ちょっと固唾《かたず》をのむ思いで、先生の顔を見守っている。外はいつか霙《みぞれ》になって待合室の中はいよいよ暗くなってくる。あたしはその時ふと思い出して、向こうの隅《すみ》に眼をやると、二人の男は依然として同じ場所で、二人ともつくねんと首をうなだれているんです。  やがて里見先生が、こういうふうに口をお開きになりました。     三 「はじめに断わっておくが僕のはあくまで小説だよ。いままでお話しした事実を、小説に都合がいいように解釈していくだけで、これで真犯人を指摘しようなんて野心は毛頭ない。実際また、これからお話しするような微《び》に入《い》り細《さい》に入《い》り、計画した犯罪がほんとにあっちゃたまらない。僕の犯人は偶然だの僥倖《ぎようこう》だの天佑《てんゆう》だのは絶対に勘定にいれない。つまり神風なんて当てにせんのだね。あらゆることが彼の綿密な計画から出てきているんだ。こういうと気炎をあげるようだが、話していくうちにボロが出るだろう。辻褄《つじつま》の合わぬところが出てくるかもしれない。そういうところがあったら遠慮なく指摘してくれたまえ」 「まあ、そんなに計画された犯罪なの、すてきねえ」 「これこれ、乗り出さんでもよろしい。前置きはそれくらいにして、犯人は、犯人は——?」 「ははははは、いやに急ぐね。犯人は古谷先生」 「まあ、やっぱりねえ」 「よし、それでは先生のアリバイがいかにして破れていくか。鮎川《あゆかわ》君、御油断あるな。変なところがあったら容赦なく突っ込むんだぜ」 「よし来た。眉《まゆ》にしっかり唾《つば》をつけてと。さあ、お伺いしましょう、里見先生」 「ははははは、たいへんなことになってきたな、それではまず最初に僕の小説の名探偵が、古谷先生に眼をつけたわけから話そう。日曜日の晩、古谷先生が田口家へ病気見舞いにきたとき、先生電報をちゃんと持ってきていたねえ。あのとき先生はそれが偽《にせ》電報だと知るはずもなく、那美《なみ》さんの失踪《しつそう》も知らないはずなのに、それにもかかわらず証拠の電報を用意していたのは、あまり慎重すぎやしないかと、それでまず古谷先生に目をつける。そのほかにもまだいろいろあるが、これはおいおい話していくとして、さて古谷先生が怪しいとなると、だれでも眼をつけるのは土曜日の晩の先生の行動だが、これは警察でも完全に調べている。その夜の先生のアリバイがあまり完全だから、警察でもついそれ以前のことを調べるのを失念した。つまりN郵便局で、あの電報を受け付けた時刻における先生のアリバイをね」 「あ、なるほど!」 「もっともこれは無理もないので、学校の先生というものは、登校から退出時刻まで、学校にしばりつけられているものという先入観があるのだね。ところが僕の名探偵が調べてみると、これが実に簡単に破れるんだ。いや、はじめからアリバイなんてないも同然なんだ。古谷先生、いとも容易に十一時五十分ごろ、N郵便局に現われることができるんだよ」 「あら、どうしてですの」 「なにね。土曜日の午前の最後の時間には先生の授業がない。と、ただしこれは小説ですよ。小説に都合がいいようにそうしておくんだ。するとその前の時間を早目に切りあげると、十一時から午後一時まで完全に体があくことになる。そしてこれは事実だが十一時五分T駅発の下り列車があるんだ。それからこれも事実だが、学校からT駅まで男の足で急いで行けば七分もあれば大丈夫だそうだ。そこで前の時間を早目に切りあげた古谷先生、大急ぎでT駅へ駆けつけると、Nまでの切符を買って十一時五分の汽車に乗る。むろんその間《かん》、知人に見られちゃたいへんだから変装する。なに、変装たって簡単なもので、雪よけ眼鏡にスキー帽、マスクをかけて外套《がいとう》の襟《えり》を立てる。これで完全に顔は隠れるし、体の格好だって外套の下にセーターやなんかうんと着込むと、相当太った人間になる。古谷先生は痩《や》せぎすな人だそうだからね。こうしてNへ着くのが十一時四十分、先生、そこで切符を渡さずに、定期券をちらと見せて、スーッと改札口を出てしまう」 「先生、定期券を持っているのかい」 「ということにするんだ。もっとも古谷先生は去年の秋までNに住んでいて、T市へ通勤していたというから、その定期券をまだ持っていることにするんだね。むろん例の混雑で駅員はいちいち名前まで見やしない」 「なるほど、それで切符が一枚浮いてきたな」 「そうだ。しかも土曜日の日付と鋏《はさみ》の入ったやつさ。さてN駅を出ると先生大急ぎで郵便局へ駆けつけるが、その時局も満員。しかし先生ここでぐずぐずしていられない。というのは先生の乗ってきた下りとほとんど入れ違いに上り列車が入ってくる。十一時五十五分N発だ。先生、それでT市へ帰らねばならない」 「その間《かん》十五分、相当|際《きわ》どい芸当だね」 「なに、そんなことはない。電報を自分で窓口へ出そうと思わなければいいんです。先生、局へとび込むと、そこにいる客の中から、なるべく自分に似ていない青年を見つけて、すみませんが僕急いでいるんです。恐れ入りますがこの電報をお願いできませんかと、頼めばだれだっていやとはいわないさ。しかもその青年が週末利用のスキーヤーとすれば、死体の発見された月曜日には、遠くNを離れている。古谷先生そういう青年を物色するんだね。こうすることによって先生、局員の前に立つ危険と、待たされる時間の両方を省略することができる。そして十一時五十五分の上り列車で、十二時四十分ごろには首尾よく学校へ帰ることができるんだ」 「なるほど、しかし同僚にどこへ行っていたと訊《き》かれたらどうするだろう」 「うちへ飯を食いに帰っていたといえばいいさ。先生あらかじめ用意して、その当座、弁当は冷たくていかんとかなんとかいって、昼飯を食いに帰っていたことにするんだね。その日は藪入《やぶい》りで婆やも家にいないから、先生が昼食に帰らなかったとはだれもいえないさ」 「なるほど、用意周到ね」 「よし、それで電報は打ったと。こんどはいよいよ夜の番だ。さあ承ろう」 「きみもすでに気づいているだろうが、古谷先生のアリバイにひとつ曖昧《あいまい》なところがある。それはうどん屋を出た五時から散髪屋へ現われる六時半まで、そのあいだに古谷先生、三軒の古本屋へ顔を出しているが、三軒の古本屋の親父《おやじ》もしじゅう先生に注目していたわけでもあるまいし、古本屋から古本屋までのあいだにすきがある。つまりそのあいだに先生、家へ帰って那美さんの来るのを待っているんだ。それにしても一時間半という、長時間にわたるアリバイを不明瞭《ふめいりよう》ならしめたというのは、思慮綿密な先生には不似合いなことだが、それは先生、那美さんは五時五十五分の汽車にするものと思ってそのほうに網を張っていたからだよ。いずれにしても先生、必ず那美さんはやってくるものと確信を持っていたんだが、これは不自然じゃあるまい」 「それは確信を持っていてもいいね。駅への途中だし、それにその晩が稽古日《けいこび》だからね。そこで那美さんがやってきたんだね」 「そうだ、六時少し前に宿を出た那美さんは、六時五分ごろには先生の家へ来る。それをすぐ二階へつれて上がる。むろん電燈の光は外へ漏れないようにしてある」 「燈火管制が変なところで役立ったな」 「ところでここで言っておきたいのは、那美さんが格子《こうし》の中へ入るところを見たものがあったらどうするかという問題だが、そんな気配があったら先生よすつもりだったんだ。そもそも先生がこんどのことを決行することになったのは、前日のラジオで、土曜日には大雪になる、そしてその雪は一昼夜以上つづくだろうということを聞いたからで、そこで先生、かねてからの計画を実行に移すことにして、まず手始めにあの偽電を打ちにいったんだが、その時だって先生、知人に会うとか怪しまれるというようなことがあったら、惜し気もなく計画を変更するつもりだった。人殺しさえなきゃ、偽電ぐらい大して問題にならないからね。古谷先生のやり口は万事そのとおりで、いつも両|天秤《てんびん》をかけている。あの電報の裏の文句などもそれだ」 「ああ、そうそう、電報といえば、那美さんがその晩古谷先生に会ったとしたら、裏に書いてあった文句はどうしたんですの」 「それはこうさ。古谷先生が留守かもしれぬと思って、那美さんが宿を出るとき書いてきた。……」 「いや、那美さんはそんな思慮のあるお嬢さんじゃない。それにそうするとあの鉛筆のでこぼこはどうなるんだ。それがあるから、古谷先生の玄関わきで書いたということになっているんじゃないか。それに第一、古谷先生はそういう僥倖《ぎようこう》はねらわない」 「あら、じゃやっぱり古谷先生が書かせたの。おもしろいわね。どういうふうにやりますの」 「それはこうです。古谷先生、那美さんに向かってこういうのです。僕はきみの勉強日記をつけているんだが、今夜休むとすれば、ここへ休みと書いておこうね。いや、それよりいいことがある。きみ、その電報の裏にこう書きたまえ。こんな電報がまいりましたから、八時の汽車でNへ帰ります。今夜の勉強はお休みにしてくださいませ。那美……とね。僕はこれを日記にはりつけておくことにする。そうすればのちになっても、どういうわけで休んだかよくわかる。ああ、ちょっと待って。膝《ひざ》の上では書きにくかろう。何か台になるものは……と、ああ、これがいい。この上で書きたまえと、差し出したのが、ほら、ようかんの箱なんかによくあるじゃないか。木目《もくめ》の立った杉板《すぎいた》の箱」 「あらまあ!」 「うまい。そのトリックはいい。そこでまんまと那美さんにでこぼこの字を書かせたんだね。しかし、その時那美さんが電報を持ってきていなかったらどうするんだ」 「だからさっきもいったとおり、先生両天秤をかけていたんだ。那美さんが電報を持ってこなければ、ほかの紙だってかまわないとね。その時は少し文句を変えるだけさ。要するにチチキトクという電報が来たこと、八時の汽車でNへ帰るということ、それがわかりさえすればよいのだ」 「なるほど」 「さて、そこまでは古谷先生上出来だったが、ここで一つヘマをやらかした。先生そのときまだ洋服のままだったが、うっかりポケットから自分の鉛筆をとって渡した。ところがその鉛筆たるや、その朝頼信紙に使ったのと同じ代物《しろもの》なんだ」 「なるほど、それから足がつく。……」 「これには先生弱った。まさか自分の鉛筆を死体に持たせておくわけにはいかない。といってそれと同じ種類の鉛筆を、ほかに持ち合わせがなかったんだね。このことが先生のひとつの弱点になった」 「それに偽《にせ》電報の頼信紙と、那美さんの置き手紙が同じ鉛筆で書かれたらしいということは、りっぱな証拠になるだろう」 「その鉛筆がざらにある種類のものだとしたら、証拠として、どの程度の価値があるかわからないが、僕の名探偵はそれも考慮に入れることにする。さて、こうして首尾よく置き手紙を書かせたら、後はもう用はない。そこで那美さんを殺してしまう。そうです。那美さんは古谷先生の二階で殺されたんです。その間《かん》、大して時間はかかりゃしない。那美さんが来てから、十五分もあればたくさんだ。そこで死体を後になって、こっそり運び出すのに便利なように、裏の物置きに隠しておく。その時、浮いてきたあの切符を那美さんの蟇口《がまぐち》に入れておいたことはもちろんだ。そしてもう一度戸締まりをして、玄関の格子に電報をはさみ、こっそり家を抜け出して、最後の古本屋に顔を出し、それから散髪屋へやってきたのが六時半」 「それから八時ちょっと前に婆やさんが帰ってくるのね。だけど先生、そうなると婆やさんが玄関に残っている那美さんの足跡を見つけやしませんか。泥靴《どろぐつ》の跡ってなかなか消えやあしなくってよ」 「おっと、そこに抜かりのある古谷先生じゃない。先生、那美さんがやってきた時、中から格子を開いてやる前に、マットかなんかを敷いておく。きみその上を歩いてくれたまえ。玄関を汚すと後で掃除に困るから。おっと、その洋傘《こうもりがさ》はこのバケツへ。で、後でマットとバケツを片づけると、玄関になんの跡も残らない」 「やるね。なかなか、古谷先生は……」 「それゃもう生死の境だからね」 「それで殺人も終わったと。で、こんどは死体の始末だが、どうしてそれをNまで運ぶんだ」 「野坂先生、ここがいちばん肝心なところだから、よく気をつけていましょうよ。少しでもあやふやなところがあったら、遠慮なく突っ込んであげましょうよ」 「どうぞ願います。さて——とその晩古谷先生が帰ってきたのが十二時過ぎ、先生はそこで裏の物置きに隠してあった死体をそっと担ぎ出す。ところできみたち気がつかなかった? T駅を出るとすぐ登り坂になっていて、汽車はしばらく徐行する。しかも線路の両側は高い崖《がけ》になっていて、崖には雪崩《なだれ》よけの金網がずうっとつづいている」 「そうそう。そういう崖がTからこっち、いたるところにあるわね」 「古谷先生の家の近所には、そういう金網に一ヵ所破れているところがある。先生そこから抜け出すと、崖の中途まで降りる。ところで下り終列車が出た後で、一時ごろにT市を出る貨物列車があることをきみたちも知っているだろう。長い、長いやつで、麻雀《マージヤン》なんかやっていてよく悩まされたじゃないか。古谷先生はあの貨物列車が足下へやってくるのを待って、その屋根に那美さんの死体をのっける。あのへんの貨物ののろいこと、牛の歩みのごときものだから、これは造作《ぞうさ》ない。さて死体をのっけた貨物列車は、猛《もう》吹雪《ふぶき》の中を、しだいにスピードを増して三十五分ののちにはNへ差しかかるが、N駅へ入る前、いやでも通過しなければならないのがあの急カーブ。あのカーブで列車はおそろしく傾斜する。そのはずみに死体は屋根から投げ出され、線路わきの土手下までずるずると転がり落ちるとこういう寸法だ」 「そういえばあのカーブにはあたしも驚いたわ。立ってた乗客いっせいに将棋倒しで、阿鼻叫喚《あびきようかん》の大騒動……」 「しかし待てよ。ええ、里見先生、先生の大傑作にけちをつけるわけじゃありませんが、どうも小生、そういうトリックならどこかで読んだような気がするんですが……」 「まいったなあ。だから通《つう》にはかなわない。すぐに看破されちまう。実は僕がこのトリックを思いついたのはほかにわけがあるんだが、たしかにそういう小説はあります。僕の記憶しているのでも二つある。一つは外国物でアパートの窓の下を高架線が走っている。その高架電車の屋根へ窓から死体をのっける。電車は猛スピードで走っているうちに死体をふり落とす、とこういうことになっているが、このトリックには弱点があって、死体が線路のすぐそばにあることになる。近ごろのごとく読者の眼が肥えて、野坂|大人《うし》のごとき達眼の士がふえてくると、すぐははあ、電車の屋根から落とされたなとくる。この弱点を補うためにできたのがEさんの小説で、死体は野っ原へふり落とされるんだが、そこへ山犬かなんかが現われて、死体を林の中へひきずりこむ。つまり死体は線路から離れた林の中で発見されるから、探偵も読者もひっかかるということになっている」 「しかしそれは僥倖だね。そういつも都合よく山犬は現われてくれんだろう?」 「だから古谷先生もそこを考えたさ。山犬に期待することができないとすると、自分で山犬になるより仕方がない。……」 「そして古谷先生、首尾よく山犬になったのね。だって死体は線路からはるか離れた、杉の森神社の境内《けいだい》で発見されたんですもの」 「そうです。山犬になる方法……というより機会を発見したんです。それがつまり犯行の翌日、すなわち日曜日の晩の古谷先生の田口家訪問となって現われた。先生あの時、T駅を四時に出る汽車で田口家を訪問している。ところであの日は日曜日なんだから、なにも夕方まで待つ必要はない。もっと早くやってきてもよいのに、わざわざ夕方まで待って、人を訪問するのにいちばん非礼な時刻を選んだというのは、田口家でぐずぐずしているうちに夜になることを勘定に入れていたんだ。ではなぜいっそ夜まで待たなかったか。もう一列車おくらせて、五時五十五分にしなかったかというと、これではまた都合の悪いことがある。この理由はもう少し後で話をするが、とにかく古谷先生、日のあるうちに田口家を訪問して、そこでぐずぐずしているうちに夜になる。とそういう時刻を選ばなければならなかったのだ。さて計略図にあたって夜になった。しかも雪はいまなおさかんに降っている。そこできみたちも覚えているだろう。古谷先生、那美さんがN駅で降りたかどうか訊《き》いてくると、田口家をひとりでとび出している。それは八時ごろだったが、その時だよ、先生が線路の上から杉の森神社へ死体を移したのは。あのカーブから杉の森神社の裏まで、ずっと茂みがつづいているから、往来からは見えないんだ」 「だけど先生、それはおかしいわ。おかしくってよ。だってそうすると死体は日曜日一日、土手の下に転がっていたことになるわね。それがどうして人眼につかなかったんですの」 「それゃあの大雪で埋まっていたのさ」 「それもある。しかし雪は夜中にあがるかもしれない。古谷先生は計画屋だから、そういう当てにならんことは当てにしなかった」 「ほほう。と、どうするんだね」 「実は僕がこのトリックを思いついたのもそれなんだが、Mさんの宿にいるあいだ、僕はよく郵便局へ出かけていった。ところできみも御承知のとおり、あの道を歩いていると、半町ほど向こうに問題のカーブが見える。ところがあのカーブの土手の下には、いつも累々たる雪が盛りあがっているんだ。あそこは北側に線路の土手をひかえているから、吹きだまりになるべき場所ではない。変だなあ。どうしてあそこだけ雪が盛りあがっているのかと、いつも不審に思っていたんだが、するとある時向こうから、下り列車がやってきた。それがカーブへさしかかると、どさっどさっと片っぱしから屋根の雪を落としていくんだ。それで僕の疑問が一時に氷解したと同時に、このトリックを思いついたんだ。つまり古谷先生もそれを知っていたんだね。で、先生どうしたかというと、貨物列車へ死体をのっけるとき、いちばん先頭のやつを選んだんだ。するとその貨車がまず一番にあのカーブにさしかかり、死体と雪をふり落とす。つぎに連結されたやつが、その上から雪をふり落とす。はい、お次ぎ、はい、お次ぎというわけで、その列車が通り過ぎるころには、あらかた死体は埋まってしまう。さらに夜明けまでには何列車か通るしね」 「ああ、先生、もひとついいことがあるわ。夜明け前にラッセル車を走らせるのよ。それがパッパッと雪をはねとばし、いよいよ死体を埋めてしまう」 「それはいいですねえ。古谷先生、それも勘定に入れていたことにしましょう。さてその死体を掘り出す場合だが、先生あまりぐずぐずできない。現場へ着いてからここかしこと探すようじゃ困る。そこだよ、先生が四時の汽車を選んだのは。四時の汽車があのカーブへさしかかるのはおよそ四時半、あたりはまだ明るい。僕は思うんだが、なんの気なしに見る眼ではわからないが、それと知った者がその気で注意してみれば、およそどのへんに死体があるか、雪のふくらみでわかったと思う。古谷先生は汽車の窓からその見当をつけたかったんだ。それには四時以後の汽車では暗くなりすぎてだめだから、そこで先生、絶対に四時以外の汽車には乗れなかったわけだ」 「なるほど、すると古谷先生の行動には、いちいち深い意味があるんだね。しかし、そうすると僕にひとつの疑問がある」 「なんだい。言ってくれたまえ」 「古谷先生がこんどの計画を実行に移す決心をしたのは、土曜日の前夜、すなわち金曜日の気象通報で、大雪になるということを聴いたからなんだね。先生かねてこの雪を待っていたのだから、それはよろしい。しかし日曜日の晩、死体を移すときに問題がある。土曜日の朝降りはじめた雪が、日曜いっぱい降りつづき、月曜の朝まで降りつづくだろうと期待するのは、天佑《てんゆう》神助をたのまず、あくまで自力本願でいく先生にしちゃちと虫がよすぎやしないか。もし日曜日の夕方までに雪がやんでみたまえ。死体を運ぶときの先生の足跡は、歴々と雪の上に残るぜ。事実は月曜日の朝まで降ってくれたから、まあ、よかったようなものの」 「いや、われわれの先生はむろんそんな僥倖《ぎようこう》は祈らなかったさ。きみも知ってるだろう。あのカーブのすぐそばを小川が流れている。この小川は杉の森神社のうしろを通ってやがて往来に接している。先生があのカーブに接近する際は、おそらくこの小川を利用したことと思う。小川たって水は涸《か》れてせいぜいくるぶしくらいの深さしかないし、底はあらい砂利だから、足跡の残るきづかいもない。しかも温泉の湯が流れこむから、この小流は絶対に凍らないしね。だから死体を運ぶ経路については、先生大して心配もしていなかったが、やがて発見されるであろう死体の上の雪の量については、相当気をもんでいたことと思う。しかしまあそこは仕方がないから発見者の無知に頼ることにしたんだね。実際の事件の場合だれだって探偵小説の最初の死体発見者みたいに、死体をそのままの状態でおいとく、なんてことはちょっと無理だからね。先生、そこを頼りにしたんだが、うまくそれが図に当たって、那美さんの死体を最初に発見した男は、あわてて雪をかきのけて死体をひっぱり出し、それから田口家へ報告している。ここで注意しなければならないのは、その朝古谷先生も田口家に泊まっていたことで、おそらく先生まっさきに駆けつけて、いよいよ雪を踏みあらしてしまったにちがいないよ。これで先生の最後の難関もみごと突破。どうです。わかりましたか」 「はい、わかりました。先生」 「ほほほほほ、それですっかり古谷先生の完全犯罪ができあがったのね。口惜《くや》しいわね」 「いや、世の中に完全犯罪なんてありっこないんです。どっかにきっとエラーがあるにちがいないんです。そこをこれから検討していこうというんですが、御両君に何かいい知恵はありませんか」 「そうだね。エラーとはいえないが弱点はあるね。偽電を打った時刻にアリバイのないこと」 「頼信紙と電報の裏の文字が、同じ鉛筆で書かれてたこと」 「そう、しかしそれも決定的な証拠とはいえないね。で、僕は考えてるんだが、那美さんの身辺からなくなっているもの、鉛筆、ベレー帽、林檎《りんご》、これが何かに利用できないかしら」 「そのベレー帽がカーブの下の雪の中から、掘り出されるとしたらどうだろう」 「それから林檎は、古谷先生の二階で食べたとしたらどう? その皮が二階に残っている」 「まさか……林檎を古谷先生の二階で食べたという説には賛成だが、皮をそのままほったらかしとくほどうかつな先生じゃあるまい。それはさておき里見先生、いったい殺人の動機というのはなんですかね」 「それはこうだ」  里見先生が語りつづけようとなすった時、出しぬけにうしろから、 「なかなかおもしろいお話ですね」     四  あたしたちまったくぎょっとしてしまいました。里見先生のごときは不意をくらって、危うく椅子《いす》からひっくりかえるところでございました。無理もございませんわね。いまのような話、ひとに聞かれてよくないことはわかりきっているでしょう。こっちは小説のつもりで話していても、聞く人によってはどんな誤解が生まれないともかぎりませんからね。いうまでもなくその人は、さっきから待合室の隅《すみ》っこにつくねんと座っていた二人のうちの、二重回しのほうでしたが、もう一人のほうはと見ると、これは相変わらず、外套《がいとう》の襟《えり》に深く顎《あご》を埋めたまま隅っこのほうにもたれています。さて、二重回しの男はストーブのそばに椅子を引きよせると、 「だしぬけに顔を出して、さぞお驚きでしょう。向こうで聴いているとあまりおもしろいお話なので、ついお仲間入りがしたくなったんです」 「はあ」  里見先生、すっかりあがって、もじもじしていらっしゃいますが、しかしその人、別に悪気《わるぎ》があるようにも見えませんでした。年は三十前後でしょう。頭は丸刈りで、太い凜々《りり》しい眉《まゆ》と、大きな眼と、引きしまった唇《くちびる》を持っています。強い訛《なま》りのある言葉から、この土地の人であることはわかりますが、まんざらのお百姓とは思えません。二重回しも小ざっぱりとしていましたが、どういうわけか裾《すそ》のほうに泥がたくさんついていました。その人は燃えさかるストーブの火をぼんやりながめていましたが、やがて沈んだ声でこういうんです。 「お話の腰を折って失礼しました。その代わり、私にその小説の結末をつけさせてくださいませんか。いけませんか」 「いえ、もうどうぞ、けっこうですとも」  あたしたちは思わず顔を見合わせましたが、その人はそんなことにはおかまいなしで、 「それじゃひとつしゃべらせてもらいましょう。いま殺人の動機というところまで来ていましたね。平凡ながら動機はやはり痴情ということにしたらどうでしょう。いけませんか」 「ええ、ええ、けっこうですとも」 「それじゃそういうことにして話を進めましょう。古谷先生にはりっぱな奥さんがおありなんですが、御病身で去年の秋からお里へ帰っていらっしゃる。そこでつい那美さんとのあいだに間違いができてしまった。しかも那美さんが妊娠したのですから、古谷先生の狼狽《ろうばい》察するにあまりあります。こんなことが世間に知れては、教育者としては由々《ゆゆ》しい問題をひき起こす。そこで事が明るみに出ないうちに、那美さんを殺してしまった。……というのはどうですか」 「いや、しごくもっともな動機ですね」 「そうお褒《ほ》めにあずかると僕も乗り気になります。では、つぎに小説の結末ですが……」  と、しかしその人はいっこう調子づいた色もなく、相変わらず沈んだ調子で語りつづけるんです。 「ここにひとり新しい登場人物を出します。それは次郎の兄で、次郎の兄だから一郎ということにしておきましょう。その一郎は弟の口からいつかこんなことを聞いたことがある。近ごろ那美さんの様子がすっかり変わった。自分に対してまるでよそよそしくなった。その原因は古谷先生にあるらしい。自分には二人のあいだに、ふつう以上の関係があるように思えてならぬ。……しかしそのころ一郎はそんな話を信じようとしなかった。かえって次郎をきびしく叱《しか》りつけた。ところがこんどの事件です。一郎は弟をよく知っている。次郎は粗暴な男だから、愛人に裏切られた場合、怒りのあまり相手を殺さぬとはかぎらないが、その死体を雪に埋めたり、つかまってから言を左右にして逃げを打つというのはどうも次郎らしくない。第一、偽《にせ》電報で那美さんを呼び寄せるなどという、計画的な頭は次郎にないことです。ところが古谷先生にはそれがある。古谷先生は謹厳な人でとおっている。事実、こんどの事件があるまではそのとおりでしたが、しかしこの人の謹厳さの底には、何かしら一種恐ろしいような苛酷《かこく》さのひそんでいることを、一郎は前から知っていた。燃え立たぬ陰火のように、はげしいつきつめたものが、謹厳な先生の行動に抑圧されていることを、一郎はかねてから知っていました。だからこんどの事件で次郎の無罪を信じると、当然彼は古谷先生に疑いの眼を向けました。ここで一郎にあなたがた、いや、あなたがたの小説の名探偵のような慧眼《けいがん》があれば問題はなかったんですが、悲しいかな、プアな一郎の頭にそれをのぞむのは無理でした。彼にできることといえばせいぜい古谷先生のあとをつけまわすぐらいのこと。そうです。事件以来一郎は、影の形に添うように、根気よく古谷先生のあとをつけまわしていたんです。ところが……ところがある日のことです。それは事件からかぞえて一月《ひとつき》ほどのちのことですが、一郎は古谷先生が現場付近をうろついているのを見た。それのみならず先生が、消えかけた雪の中から何か拾ってポケットに入れるのを見たんです。そこで一郎は古谷先生をある場所に追いつめ、……拾ったものを見せろという、見せぬという……押し問答のすえ……つまり一郎も弟に似て粗暴な男だったんです。……それに……それに腕力が強すぎた。……気がついた時には古谷先生、一郎に喉《のど》を絞められて、ぐんにゃり死んでいたんです」  不思議な男はそこまで語ると、突然椅子から立ち上がり、そして物すごい微笑であたしたちを見くらべながらこんなことをいうんです。 「どうです、この結末は。お気に入りませんか。はっはっはっ、イヤ失礼。つい調子に乗って詰まらぬおしゃべりをしてしまいました」  まるで疾風のようにその男は待合室を出ていきました。あたしたち、その男が改札口を出ていくまで、後ろ姿を見ていましたが、そのあとで顔を見合わせたときの、里見先生や野坂さんの顔色ったらございませんでした。 「なんだい、あれゃ……」 「事件に関係のある人物らしいね」 「いやだわ、いやだわ。気味が悪いわ。でもおかしいわね、あそこにいる人、あれ、あの人の連れじゃないのかしら」  そう言いながらもう一人の男のほうへ眼をやったとたん……そのことで里見先生や野坂さんによくひやかされるんですよ。あれゃきみ、すばらしいコロラチュラだったよなんてね。  だけどそうおっしゃるお二人だって、あまり威張ったことは申せませんわ。  だってねえ、あたしたちが振り返ったとたん、外套《がいとう》の男がクラクラと崩れるように、腰掛けからずり落ちたんですが、その拍子に帽子がとんで、下から現われたのは……ああ、思い出してもぞっとするわ、くゎっと眼をみはった男の顔! しかも、その人たら腰掛けから滑りおちると、両脚をうんと左右に踏んばり、頭を腰掛けにもたせたまま、身動きはおろか、まばたきひとつしないんです。あまりの気味悪さにあたしたちふるえあがりましたが、三人のうちでいちばんしっかりしていたのは野坂さんで、変な腰つきをしながらも、そろそろそばへ近寄ると、スキーのステッキで遠くのほうから外套の襟をつついていらっしゃるの。  先生、およしなさいよ。いやよ、いやよ、そんなこと。……あれえ!  あたしまたコロラチュラをあげました。だって、外套の襟をめくると、喉《のど》のところにくっきりと、くろずんだ指の跡が見えたんですもの。ええ、その人、絞め殺されていたんですわ。     五  それからどうしたって? どうもこうもありませんわ。何もかもめちゃめちゃ、里見先生はとうとう原稿すっぽかし、だって仕方がありませんわ。声を聞きつけて、駅員がどやどやと駆けつけてきたんでしょう。まさか、はいさようならというわけにはいかないじゃないの。駅員の言葉でその男が、古谷先生であることがわかりました。めんどうですから、これからのちも、小説の名前で呼ぶことにしましょうねえ。  で、あたしたちがわいわい騒いでいると、思いがけなくさっきの男が、こんどはお巡りさんをひっぱってやってきたんです。そしてそこに死んでいる古谷先生を指さしてこんなことをいうんです。  古谷先生を殺したのは自分である。いや、殺すつもりではなかったが、この待合室の中で口論しているうちに、つい力が入りすぎて絞め殺した。驚いて逃げ出そうとするとだれかやってくる。そこで急いで先生の死体を隠そうとしたが、とっさのことでどこにも隠すところがない。そこで帽子と外套の襟で顔を隠して、隅《すみ》によりかからせたところへ、この人たちがとび込んできた。万事休すである。 「そこで私は自分の体で、古谷先生の体を支えながら、この人たちの出ていくのを待っていたんです。しかし何が幸いになるかわからない。この人たちの話によって、私ははじめて古谷先生のやりくちがわかった。さあ、この人たちに訊《き》いてください。この人たちはいかにして古谷先生が那美さんを殺したか知っている。訊いてください。訊いてください、訊いてください。……」  あたし探偵作家の空想に敬服せずにはいられませんわ。土曜日の午前の最後の時間には古谷先生の授業はなかったんです。古谷先生はその時分、いつもおひるをうちへ食べに帰っていたんです。古谷先生はNからTまでの定期券を持っていたんです。古谷先生の二階の押し入れから、木目のあらい杉板の菓子箱が出てきたんです。古谷先生の家の近くの崖《がけ》の金網には、近ごろ破った跡があったんです。頼信紙と電報の裏の文字が精密に比較研究された結果、同じ鉛筆で書かれたものであることがわかったんです。那美さんのベレー帽が、カーブの土手下の雪の底から掘り出されたんです。  最後に……さあ、ここがいちばん肝心なところよ。ようく聴いていただきますわ。  古谷先生の婆やはあの土曜日の晩のことをよく覚えていました。というのはその日が藪入りだったから記憶しやすかったのね。婆やの話によると、古谷先生は碁を打ちに出る前、二階を掃除して床をとっておくように命じたそうです。悪賢い古谷先生、二階になにもないぞということを、それとなく示しておきたかったのね。婆やは二階の書斎を片づけましたが、畳の上にあった重い洋書を、机の上に重ねようとして持ち上げると、本の裏からポロリと二寸ばかりの林檎《りんご》の皮が落ちたのですって。その皮がまだみずみずしくて、たったいまむいたばかりみたいだったので、それでは先生、自分より前に一度この二階へ帰っていらしたのかしらと、その時婆やも不思議に思ったそうです。思うに古谷先生、芯《しん》も皮もひとまとめにして、抜け目なく捨てたつもりだったのでしょうが、二寸ばかりの切れっぱしが、重い洋書の下敷きになっていて、本を持ち上げてもぴったり裏へくっついていたものだから、つい見落としていたのね。  どう? 林檎の皮が古谷先生の二階から出てくるというのはあたしのアイディアよ。だから、さあ、あたしが威張ったの威張らないのって。すっかり天狗《てんぐ》になっちゃった。ええ、あたしたち警察の要請で、またM先生の宿へもどると、しばらく成り行きを見ていたんです。  これですっかりお話ししたつもりですけれど……ええ? 古谷先生が現場で拾ったもの?……おお、そうそう、それは銀のシガレットケースでした。しかも蓋《ふた》の裏に恩師古谷先生に献ず、T女学校卒業生一同というような文字が彫ってあったのですから、先生がいかに血眼《ちまなこ》になって探していたかわかるわね。そのケースの落ちていた場所は杉の森神社の玉垣《たまがき》の石と石とのあいだだったそうで、先生が死体を抱いて玉垣をとびこえるとき、ポケットから滑り落ちたのだろうといわれています。落ちるときバネがひらいたとみえて、なかの煙草《たばこ》はくちゃくちゃになっており、だれの眼にも長いこと雪の中に埋まっていたことがわかったそうです。先生、雪が解けてしまうまでに、そのケースを探し出そうと躍起となっていたのでしょうが、やっとそれを見つけたところを、一郎さんに見つかったのですから、やっぱり完全犯罪ってないものね。ついでに言っておきますが、古谷先生の死因は窒息じゃなくて心臓|麻痺《まひ》だったんですよ。一ヵ月あまりの緊張と神経過労のあげくに、一郎さんに責めたてられて、とうとう心臓にカタストロフィーが来たのね。だから一郎さん——待合室の隅にいたあの不思議な人物が、一郎さんだったことはおわかりになっているでしょう——その一郎さんはなんの罪にもならずにすんだんですの。  最後に里見先生ですが、こうなると原稿の一つや二つフイにしても惜しくはないわね。なんしろその時の先生の人気たるやたいへんなもので、一躍英雄にまつりあげられたんですもの。でも、先生御自身はすっかりお照れになられまして……だって、その時、地方新聞に出た記事の見出しというのがこうなんですもの。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   ——名探偵作家得意の推理によって、みごと怪事件を解決す—— [#ここで字下げ終わり]  名探偵作家がいいじゃありませんか。ほほほほほ。 [#改ページ] [#見出し]  花 粉    事件の表面 「沢村《さわむら》さんが人殺しですって? あのおとなしい沢村さんが……あなた、そんな馬鹿なことを信じていらっしゃるの? それゃ、ひとは見かけによらぬものって言葉もあるけど、そんな言葉は沢村さんには通用しませんわ。何かの間違いよ。ええ、ええ、間違いにきまってますとも、警察の方、何か飛んでもない勘違いしてらっしゃるのよ。あなた、ねえ、あなたってば……」 「う、うん、なんだい」 「なんだいじゃなくってよ。沢村さんとは、それほど深い御交際ってわけじゃないけど、こうして同じ隣組に住んでいれば、まんざらの他人ってわけにはいかなくってよ。なんとかしてあげてちょうだいよ。ねえ、ねえったら……」 「それゃ、僕だってそう思わないことはないさ。しかし、何もかも沢村君に不利なことばかりでねえ。どうもわれわれの手に負えそうにないんだよ」 「沢村さんに不利なことって、あの酔っ払いの証言でしょう。そもそもあんな酔っ払いの言葉を取りあげるのからして間違っているのよ。ねえ、ねえ、あなたってば、あなたも大学教授だなんて威張ってるんでしょう」 「僕はなにも威張ってなんかいやあせんよ」 「威張らなくったって大学教授は大学教授でしょう。大学の先生だなんていうと、頭のいいものと相場がきまっているわ。だからさあ、その頭のいいとこを見せて、なんとかしてあげてちょうだいよ。あたし沢村さんがお気の毒で、たまらないのよ。あの方、ほんとうに運の悪い方なんですものねえ」 「それゃ僕だって大いに同情してるがね」  大学教授の笹井賢太郎《ささいけんたろう》氏が、ほっと溜息《ためいき》ついたというのは、むろん気の毒な沢村君に対する同情もあったけれど、もう一つはこんどの事件ですっかり興奮している、奥さんの美穂子《みほこ》さんを持てあましているからであった。  美穂子さんは今年二十七、御主人の賢太郎氏とは十違いである。女子大出の、美しくて、聡明《そうめい》で、朗らかな、申し分のない奥さんだが、玉に瑕《きず》ともいうべきは、何かに熱中すると前後《あとさき》もかまわず夢中になることである。むろん、何事にもあれ、物に熱中できるという性質は、決して悪いことではない。しかしそれも程度の問題で、美穂子さんのように度を越すのは、いささか困りものだと、賢太郎氏はいつもハラハラしている。その美穂子さんが、こんどは事もあろうに殺人事件に熱中しているのだから、賢太郎氏が持てあますのも無理はなかった。 「同情していらっしゃるだけではなんにもなりませんわ。実際に行動を起こして沢村さんのお力になってあげてちょうだいよ」 「実際に行動を起こすって……?」 「だから、あなたの明晰《めいせき》な頭脳を働かせていただくのよ。そして真犯人を捕らえていただくの」 「なんだ、それじゃおまえ、僕に探偵《たんてい》のまねをしろというのかい」 「そうよ。でも探偵といっても、何も自動車で悪漢を追跡したり、ピストルを振り回したり、そんなんじゃないのよ。脳細胞を働かせて推理していただくの。推理によって事件の真相を突きとめていただくのよ」 「美穂子」 「なあに」 「おまえ、近ごろ探偵小説を読んでるね」 「あら!」 「馬鹿だなあ。なるほど探偵小説を読むと、探偵がすばらしい推理力を発揮して、みごと、事件の謎《なぞ》を解くね。そして真犯人をつかまえ、無実の罪に泣いている善男善女《ぜんなんぜんによ》を救うことになるね。しかし、あれは要するに小説家の作り話、つまり空想さ。実際の事件の場合、そうはゆかない。少なくとも僕には自信がないね」 「わかりました。ええ、ようくわかりましたわよ」 「おい、おい、美穂子、どうしたのだ」 「いいえ、あなたって方は日ごろから冷淡な方だとは思っていました。でも、そんなに冷酷な方だとは存じませんでしたわ。ええ、よござんす。あなたがそんなお気持ちなら、もうお願いはいたしません。あたし一人でやります」 「おまえがやるって探偵をかい?」 「ええ、そうよ。いけなくって? この事件には何か大きな間違いがあるのよ。その間違いがわかって、沢村さんに罪がないことがわかればいいのよ。あたし、その間違いを発見してみせます」  美穂子は当たるべからざる勢いである。  もっとも、美穂子がこのように興奮するのも無理ではなかった。だれだって自分の身辺に恐ろしい殺人事件が起こって、しかも自分の懇意な人が、容疑者として捕らえられれば、興奮せずにはいられまい。ことにその人が善良で、好意の持てる人物であるとすれば、なんとかして恐ろしい疑いから、救ってやりたいと思うのは人情である。だが美穂子はそれがいくらか極端に来るのであった。凝り性で、積極的な彼女は、陰で同情したり、気をもんだりしているだけでは納まらないのだ。  それにしても、美穂子をこんなに興奮させている事件とは、いったいどんなことか、それをお話しする前に、美穂子と美穂子の御主人の賢太郎が営んでいる家庭の模様からお話ししなければなるまい。  笹井賢太郎氏は国立《くにたち》のほうにある大学の教授である。専門は経済学史だということだが、なるほどこれでは探偵小説の探偵とは縁が遠いかもしれない。年は美穂子さんと十違いの三十七。美穂子さんと結婚したのは五年前だが、夫婦にはまだ子供がなくて、つまり、それだけに美穂子さんはいつまでたっても、若くて、美しくて、女子大気質が抜けぬというわけである。  さて、結婚以来夫婦は吉祥寺に住んでいる。御存じのとおり吉祥寺というところは戦災をまぬがれたので、駅の近くは恐ろしく人口が殖《ふ》えている。しかし、笹井夫婦の住んでいるへんは、吉祥寺もうんと北の外れで、そのあたりはまだ武蔵野《むさしの》の名残りの雑木林《ぞうきばやし》や、原っぱや、ゆるやかな起伏が残っている。そして、そういう雑木林や原っぱのほとりに、あちらに一軒、こちらに二軒というふうに、ポツンポツンと家が建っている。そういう家が七軒集まって、一つの隣組をつくっているのだが、それらの隣組の住人というのは、笹井賢太郎のような学者だとか、退役軍人だとか、音楽家だとか、そういう物静かな人たちばかりであった。  ところが、昨日の朝のこと、この付近で恐ろしい殺人事件が発見されて、日ごろ物静かな隣組の人たちをふるえあがらせたのである。その事件というのはこうなのである。  この隣組の中にかなり大きな雑木林がある。この雑木林は同じく隣組の一員であるところの、地主さんの持ち物なのだが、近ごろでは燃料不足なので、隣組の人たちは必要に応じてこの雑木林へ燃料を探しにゆく。昨日の朝も、妹尾《せのお》という若い音楽家の細君で折江《おりえ》さんというのが、その雑木林へ燃料を探しに入ったが、間もなく、あれえという叫び声をあげたのである。  この雑木林は、隣組の中では笹井氏の宅にいちばん近かった。しかも昨日は講義の都合で、賢太郎氏は午前中家にいたが、そういう日には美穂子さんは、いつも御主人に留守を頼んで買い出しに出かけることにしている。つまりその時賢太郎氏は一人で、調べ物をしていたのだが、するとそこへ聞こえてきたのが妹尾夫人折江さんの悲鳴である。賢太郎氏は驚いて書斎の窓から外を見たが、すると折江さんがこけつまろびつ、雑木林の中を駆けてくるから、何事が起こったのかと声をかけた。 「奥さあん、どうかしましたか」 「ああ、笹井さん、早く来て、……早く来てちょうだい……ひ、人殺しよう!」 「な、な、なんですって、ひ、人殺し?」 「ええ、人殺し……女の人が殺されてるのよ」  そこで賢太郎氏は泡《あわ》を食ってとび出したが、そこへ通りかかったのが、同じ隣組の一員であるところの、退役の老大佐|藤田省吾《ふじたしようご》氏だ。 「笹井さん、何かあったのですか。あの奥さん、何をあんなに騒いでるんです」 「ああ、藤田さん、人殺しなんだそうです。雑木林の中で女が殺されているそうです」 「なんじゃ、人殺し……?」  そこで二人は雑木林の中へとびこんだが、折江さんの指さすところまで来ると、二人ともはっと立ちすくんだ。草にうずもれて女が一人倒れている。それは二十七、八の、お化粧の濃い、そして真っ白なイブニングの上に、紫色のレーンコートを着た女だったが、レーンコートの前が開いて、イブニングの左の胸に、真っ赤な血がこびりついているのが見えた。その血の色が、右の胸にさした紅い、押しひしゃがれた薔薇《ばら》の花と対照して、妙に印象的だった。  賢太郎氏はそれを見ると、脚がしびれるような気持ちだったが、藤田老大佐はさすがに勇敢で、死体のそばへ寄ると傷口を調べていたが、 「撃たれたのだね」 「え? 撃たれたのですって?」 「そう、ピストルで撃たれたらしい。ああ、ちょっと見たまえ。腕時計が壊れて、十一時二十分のところで針が止まっている。たぶんこれが犯行の時間だよ。つまり十一時二十分に射殺されたのだ。そして倒れるときに何かにぶっつけて腕時計が止まったのだよ。ほら、そこを見たまえ。草の中にきらきら光っているのは、腕時計のガラスじゃないか」 「しかし、藤田さん、そうすると妙ですよ。昨夜は地主さんのお宅でお通夜《つや》があって私も出かけましたが、それは十二時からのちのことで、十一時二十分には私はまだ家にいて調べ物をしていましたよ。ここでそんなことがあったのなら、ピストルの音が聞こえたはずですがねえ」  賢太郎氏が不思議がるのも無理ではなかった。  昨日は地主さんの家に不幸があって、六軒の隣組でお通夜をすることになった。しかしこの六軒が全部夜通しつとめるのはたいへんだからというので、これを二組に分けて、早い組は宵《よい》から十二時まで、遅い組は十二時から二時までということに話がきまった。この早い組に当たったのは藤田老大佐に、音楽家の妹尾《せのお》さん、それにもう一人川口さんという老未亡人の三人であった。そして遅い組に当たったのが、賢太郎氏に、彫刻家の沢村|恭三《きようぞう》氏に、それに福井さんという御老人の三人であった。だから犯行が十一時二十分ごろにあったとすれば、賢太郎氏はまだ自宅にいたはずだし、そうすれば当然、銃声を聞いたはずだというのである。  藤田老大佐はそれを聞くと、なるほどもっともというふうに髭《ひげ》をかんでいたが、 「いや、そうすると、どこかほかで殺して、ここへ死体を運んできたのかもしれない。それともピストルの音を消すような装置がしてあったのかもしれん。いずれにしても、すぐこの事を警察に報告しなければ……」  と、そういうわけで、すぐその由が警察へ報告され、そこで日ごろ物静かなこの武蔵野の一角はたちまち大騒ぎになったのである。  さて、死体の身元だが、それはすぐにわかった。死体のそばにハンドバッグが落ちていたが、そのハンドバッグの中身によって、彼女が有名なレビュー女優、鮎川千夜子《あゆかわちやこ》であることがわかった。それと同時に、千夜子が昨夜十一時ごろ、吉祥寺駅へおりたのを見た者があることもわかった。千夜子の住まいは大森だから、そんな時刻に吉祥寺でおりたとすれば、きっとだれかを訪問するところだったに違いない。その途中で殺されたか、それとも訪問先で殺されて、後からあの雑木林へ運ばれたのか……そうだとすると、彼女の訪問先はだれだったのか。  いったい鮎川千夜子という女は、昔からとかくの風評のあった女で、見たところ、二十七、八にしか見えないが、ほんとうの年は三十を越しているはずで、それまでにはずいぶんいろんな噂《うわさ》を立てられてきた。美貌《びぼう》と人気を種にして、かなりひどいこともやってきたというし、こういう最期を遂げるのも、当然かもしれないというものもあった。  笹井夫妻は以上のようなことを今朝の新聞で知ったのだが、するとお午《ひる》前になって、またもや隣組を驚かせるような事態が起こった。同じ隣組の一員であるところの、彫刻家の沢村恭三が、千夜子殺しの嫌疑《けんぎ》で拘引されたのだが、それにはつぎのような事情があった。  そのころ、吉祥寺には一人の人気者があった。名前を六さんといって、もとは本所《ほんじよ》か深川でたたき大工をやっていたもので、戦災で女房子供を失って、ひとりぼっちになって吉祥寺へ流れこんできたものだが、器用でもあるし、こまめによく動くし、また気の軽い人物なので、六さん、六さんと重宝がられて、あちこちに雇われてゆく。ただ困ったことにはこの男、酒に目がない。金があると飲んでしまう、そして酔うと往来であろうがどこであろうが寝てしまう。しかし、いったいが罪のない酒で、ひとに迷惑をかけるようなことはあまりないので、酔っぱらってふらふらしていても、あら、六さんが酔っ払ってるよぐらいですんでしまう。お巡りさんもまたかという顔で見て見ぬふりをしている。  その六さんが、今朝の十時ごろ、いつにない生真面目《きまじめ》な顔をして、警察へ駆け込んできたかと思うと、つぎのようなことを申し立てたのである。 「一昨日《おととい》の晩のことですが、つまり、その、また酔っ払っちまったんです。そして十時ごろ、酒場を出たまでは、まあ、かなりよく覚えてるんですが、それから後がいけません。あっちへふらふら、こっちへふらふら、気がつくと馬鹿に淋《さび》しいところへ来ちまっている。はてな、ここはどこだっけと、考えてみてもどうしてもわからねえ。あたりを見回すと、林があって、原っぱがあって、あっちにポツン、こっちにポツンと家が建っている。さあ、たいへんだ、妙なところへ来っちまったぞと思ったが、なにしろ酔っ払ってるもんですから、歩くのが大儀《たいぎ》でならねえ。そこでままよとばかり、手近にあった家へ入って寝ちまったんです。それからどのくらいたったのか。そんな調子だから見当もつきませんが、何かのはずみにふと眼をさましたら、その時には驚きました。 「なぜったって、それがとても変てこな家なんで……へえ、洋館は洋館だが、ふつうの洋間じゃねえ。馬鹿に広くて、がらんとしていて、天井はガラス張りでさ。そのガラス天井から、月の光がかすかにもれているんですが、その光にぼんやり浮きあがっているあたりの様子を見た時には、あっしもぎょっとしましたよ。部屋のあちこちいちめんに、にょきにょき人が立ってるんです。いや、立ってるのもあれば座ってるのもある。男もいれば女もいるんですが、そいつがみんな裸なのには驚きましたね。それがまた、黙って身動きもしねえで、しいんと月の光の中にうずくまっているその気味悪さったら! 「あっしゃ肝《きも》をつぶしてすんでのことで声を立てるところでしたが、その時やっと気がつきました。人形なんです。ははははは、みんな泥《どろ》でこさえた人形なんですよ。 「それにしても妙なところへ潜りこんだものだと思ってきょろきょろしていると、そこへ人の足音が聞こえてきました。見つかっちゃたいへんと思って、あっしゃまた横になりましたが、幸いそこは部屋の隅《すみ》っこで、暗くもあるし、あたりはごちゃごちゃと人形が立っている。向こうから見える気遣いはねえとたかをくくって見ていると、ドアを開いて、女が一人入ってきました。暗いので顔はよくわかりませんが、レーンコートの前が開いて、その下に真っ白な洋服を着ている。そうそう、それから洋服の右の胸に、花を挿《さ》しているのが見えましたっけ。女は入り口に立って部屋の中を見回していましたが、やがて中へ入ってきました。 「ところが、その時、また人の足音が聞こえたんです。女もそれを聞くと、うしろを振り返りましたが、そこへぬっと入ってきたのは、黒っぽい洋服を着た男でした。ええ、このほうも顔のところはよく見えません。ちょうどその辺のところが陰になっているんですね。それにあっしのところからはかなり離れておりましたので…… 「ところが、驚いたことにその男、左手に何やらきらきら光るものを持っていると思ったら、なんとそれがピストルなんで、そいつでズドンと一発、……いえ、音は大してしませんでしたよ。カチッというような音がしただけですが、すると女がくらくらとよろめいて、そこに立っている人形に抱きついたかと思うと、そのままくなくなと床に倒れました。それがあなた、男も女も一切無言でしょう。おまけにピストルの音もしねえ。まるで活動写真、……それもトーキーじゃなくて、昔の音のしねえやつを、音楽も説明もなしに見ているような気持ちで、いや、もう怖いのなんのって、あっしゃふるえあがっちまいました。見つかっちゃどんなことになるかしれませんやね。 「そこであたりを見回すと、たぶんそこからさっき自分が潜りこんだんでしょう。うしろの窓があいている。これ幸いとふるえる足を踏みしめて窓から外へとび出すと、足音しのんで一目散に逃げ出したのはよかったが、めくらめっぽう走っているうちに、防空|壕《ごう》へ転げこんでしまって……その時打ちどころでも悪かったのか、朝まで気を失って寝ているところを人に見つかって起こされたんですが、さて、後になって考えてみるに、昨夜のことが夢かうつつかはっきりしねえ。おおかた酒に酔って、つまらねえ夢を見たんだろうと、そう思ったもんですから、だれにも話さずにおいたんですが、今朝の新聞を見ると、女の殺されたことが出ています。しかも、その女というのが一昨夜《おととい》の女のように思われるので、届けにまいったんですが…… 「へえへえ、その男はたしかに左利きでしたよ。左の手にピストルを握っていました。え? 右腕があったかどうか、……さあ、そういえば右の腕が肩の付け根からなかったような気がしますが、このほうはしかと覚えておりません。なにしろ暗かったので……ああ、そうそう、それから時刻ですが、それはちょうど十一時十五分でしたよ。というのはその部屋のドアの上に時計がかかっているんですが、妙な時計でくらがりでも光っていて、時間がわかるようになっているんです。窓から外へとび出した時、ひょいとうしろを振り返ると、その時計が十一時十五分を指しているのが見えました。へえ、こればかりは間違いございません」  以上が六さんの申し立てだったが、この言葉によってただちに想像されるのは、六さんが一昨夜《おととい》潜りこんだのが、彫刻家のアトリエらしいということである。しかも、昨日千夜子の死体の発見された雑木林のすぐ近所には、沢村恭三のアトリエが建っている。そこで警官がそのアトリエを調べてみると、床には血をふきとった痕《あと》があり、それが絨緞《じゆうたん》で隠してあった。また、そこにある、裸像の一つには、胸のあたりに血がついていた。さらにまた、そのアトリエのドアの上には夜光時計もかかっていた。だが、それよりもアトリエの主人公沢村恭三にとって決定的に不利だったことは、六さんの見た犯人が、左手でピストルをぶっぱなしたということである。  沢村恭三はこんどの戦争のはじめごろ、南方戦線で負傷して、右腕が肩の付け根からなくなっている。笹井夫人の美穂子《みほこ》さんが、いつも沢村恭三を、気の毒な人と同情しているのもそれがためであった。  右腕を失った彫刻家、それだけでも大きな不幸であったのに、今また殺人の嫌疑をうけて、もしそれが当人にとって身に覚えのない濡衣《ぬれぎぬ》だったとしたら、どんなにか不仕合わせなことだろう。笹井夫人の美穂子さんが躍起となって同情するのも、いわれのないことではなかったのである。    事件の裏面 「ねえ、あなた。あなたは鮎川《あゆかわ》さんの死体をいちばん先に見たんでしょう。その時、鮎川さんの死体にどこか妙なところはありませんでした?」 「おい、おい、美穂子、それじゃおまえほんとうにこの事件を探偵してみる気かい」 「ええ、もちろんよ。だけど心配しないでちょうだい。あたし外国映画の女探偵みたいに、やたらにピストルを振り回したり、汽車から、自動車に乗り移ったり、そんな放れ業はしなくってよ。あたしはもっと高級な近代的探偵なの、ロジックとディダクション、論理と推理よ」 「おやおやあきれた。おまえの探偵小説熱も相当なもんだね」 「なんとでもおっしゃい。あたしこれでも一生懸命よ。あたしの推理が成功するかしないかで、沢村さんの運命がきまるんですもの」 「ああ、よくわかったよ。女シャーロック・ホームズ君、僕は甘んじてワトソンになるよ。で、なんだっけ、おまえの質問は?」 「だめね、そんなことじゃ。よくきいてちょうだいよ。あなたはいちばん先に鮎川さんの死体を御覧になったんでしょう。その時、何か妙なことはなかったかってお伺いしているのよ」 「ああ、そのことか。それだと別にとりたてて、妙だと思うようなこともなかったよ」 「だからだめよ、あなたは。昨日あなたはこうおっしゃったでしょう。鮎川さんは左の胸に傷をうけていて、そこからにじみ出した血が右の胸にさした薔薇《ばら》とならんで、とても気味が悪かったって……」 「うん、それがどうかしたかね」 「それ、変にお思いになりません? 女が洋装して、胸に花をつける時には、たいてい左の胸に挿《さ》すものよ」 「なんだ、そのことか。それくらいのことなら僕だって知ってるよ。僕もその時ちょっと妙に思ったんだ。ところがさっき来た刑事に聞くと、六さんの話でも、鮎川という女は右の胸に薔薇の花を挿していたそうだ」 「まあ、あなた、それほんとう?」 「ほんとうだとも、だれが嘘《うそ》をいうものか」  美穂子は急に黙りこんでしまった。そしてはげしく唇《くちびる》を噛《か》みながら、何か一心に考えている。その様子が真剣さを通り越して、悲壮にさえ見えるので、賢太郎氏も心配になった。賢太郎氏とて沢村恭三には同情している。だから妻の美穂子が不幸な友人のために、一生懸命になってくれることは、決して不愉快なことではなかった。しかしあまり真剣になりすぎて、体をこわすようなことがあってはと、それが心配になってくるのであった。そこで彼はつとめて軽く、からかうような調子でいうのである。 「おいおい、女シャーロック・ホームズ君、どうかしたかね。いきなり難関にぶつかったね」 「あなた。その洋装っていったいどんなふうなの。左のほうに何かデザインがあって、どうしても右の胸に花をつけなければならないようになっているんですの」 「そんなふうでもなかったね。たしかに右に挿していたのは変だった。僕のようなものの眼にもわかったからね。もっとも、左の胸には血が吹き出しているから、ちょうどそれで釣《つ》り合いがとれていたが、……しかし鮎川はまさか左の胸をねらわれることを知っていて、はじめからそこをあけておいたんじゃあるまいがね。ははははは」  それを聞くと美穂子ははっとしたように眼を輝かせた。そして何かいおうとするようにせきこんだが、また思い直したように、ゆっくりとこんなことをいった。 「それじゃこの問題はこれくらいにして、別の方面から考えてみましょうよ。一昨日の晩は地主さんのお婆《ばあ》さまがお亡くなりになって、隣組の人たちは二組に分かれてお通夜をしましたわね。その時沢村さんは遅番の組、つまりあなたと同じように十二時からの組だったのでしょう」 「それだよ。あの晩、沢村君が早番の組だったら、こんな疑いは受けずにすんだのだがね。それにしても警察でも、もっとよく考えてもらいたいのはあの晩の沢村君の態度で、かっきり十二時に地主さんの家へやってきたが、その時の沢村君の態度には、ふだんと少しも変わったところはなかったよ。もっともあの晩は、婆やさんが親戚《しんせき》へ行っているから、家は空っぽだ。無用心だから早く帰りたいというようなことは言っていたが……」 「それごらんなさい。それが沢村さんの無罪の証拠よ。なんぼなんでも人殺しをしておいて、そんなに落ち着いていられるはずはないわ」 「そうだ。僕もそう思う。しかしこれは感情の問題で、ロジックとしては成り立たない。六さんの証言によると、鮎川が殺されたのは十一時十五分だったというし、鮎川の腕時計も十一時二十分のところで止まっていた。その時刻には沢村君、ただ一人でアトリエにいたわけだから、アリバイが成り立たないんだ。それに左腕の問題がある。こんどの戦争がいかに大きかったとはいえ、右腕のない男が、そうざらにあるわけはないからね」 「あなた、それが間違いなのよ。そこに大きな間違いがあるんですわ。相手はどうせ酔っ払いですもの。当てになんかなるもんですか」  美穂子はそこで血の出るほど、きつく下唇を噛んでいたが、突然はっと顔をあげると、 「あなた、あたしこれからアトリエへ行っちゃいけません? あのアトリエでちょっと調べてみたいことがあるんですけれど」 「美穂子。……」 「あら、何も心配することはないのよ。ただちょっとあの人形……ほら鮎川さんが倒れる時、すがりついたという人形を調べてみたいの。ねえ、あなたもいっしょに来てちょうだいよ。ひょっとするとあたしの推理が当たっているかもしれないわ」  美穂子があまり熱心なので、賢太郎氏もそれを拒む勇気はなかった。そこで内心危ぶみながらも美穂子についてアトリエの前まで来ると、そこでばったり出会ったのは、藤田老大佐と音楽家の妹尾《せのお》氏である。どちらへと訊《き》かれて賢太郎氏が仕方なしに頭をかきながら、委細の話をすると、藤田老大佐と妹尾氏も、好奇心にかられていっしょにアトリエへ入ってきた。 「ははははは、女シャーロック・ホームズはいいですな。ひとつ奥さんのお手並み拝見といきますかね」  妹尾氏は笑っていたが、藤田老大佐は笑わなかった。 「いや、これは笑いごとではない。奥さんの探偵功を奏して、なんとか沢村君を救いたいものだ。あの男が人殺しだなんて、そんな馬鹿げたことがあるはずはないからな」 「ところが藤田さん、さっき刑事に聞いたんですが、形勢はますます沢村君にとって悪いんですよ。鮎川千夜子はあの晩、駅の付近で沢村君のところを聞いているんです。してみると、あの晩千夜子がここへ来ようとしていたことはまず間違いない。それから、沢村君も以前あの女と恋愛関係があったことは認めたそうです。もっとも戦争に行っている間に女のほうで心変わりがしたので、沢村君はあきらめたといっているそうですが、警察ではむろん、そんな言葉を額面どおり受け取るはずがない。それからピストルですが、これはまだ見つからないが、死体から取り出された弾《たま》によると、軍隊用の拳銃《けんじゆう》らしいというんです。そうなると帰還兵の沢村君はますます不利になる。僕も奥さんの御成功を祈る点にかけちゃ人後におちんつもりですが、これは脈がなさそうですね」  美穂子は蒼白《あおじろ》い緊張した顔で妹尾氏の話を聞いていたが、軍隊用のピストルと聞いたときには、彼女の頬《ほお》の筋肉が、かすかにぴくりと動いたようであった。 「さあさあ、美穂子、お望みどおりアトリエへ来たが、ここで何を発見しようというのだね」 「ああ、そうでしたわ。うっかり妹尾さんの話に聞きとれていて……」  美穂子は改めてアトリエの中を見回したが、すると今さらのようにぞっと薄ら寒さを感ずるのだった。六さんが驚いたのも無理はない。そこには男女の裸像がさまざまな形をして、何十となく並んでいる。あるいは立ち、あるいはひざまずき、あるいは座り、等身大のもあればそれより大きなものもある。そういう塑像が黙々として、天窓からさしこむ折りからの夕明かりに、さまざまな陰影をつくり出している光景は、それだけ一種の妖気《ようき》をはらんでいるように見えるのに、そこで恐ろしい人殺しがあったかと思うと、これらの人形に何かしら神秘なものが感じられて、美穂子はぞっと身震いが出るのだった。 「あなた、鮎川さんのすがりついた像というのは……?」 「奥さん、それならあれですよ。ほら、両脚を踏んばっている等身大の男の裸像……鮎川はなんでもよろめくはずみに、その裸像に接吻《せつぷん》するような格好ですがりついたということですよ。ほら、御覧なさい、この裸像の右の乳の下に、かすかな血痕《けつこん》がついていますよ」  美穂子は問題の裸像に近寄ると、黒ずんだ血痕にちかぢかと顔を寄せて、舐《な》めるようにながめていたが、やがて満足そうな叫び声をあげた。 「あなた、あなた、ちょっとここへ来て、これを見てちょうだい。あなた、これ、なんだかおわかりになって?」 「どれどれ、何を見つけたんだね」 「ほら、この黄色い粉、血の痕《あと》のすぐ上についている……これ、花粉じゃありません?」 「おお、なるほど、花粉らしいね」 「そうでしょう? 花粉でしょう。わかったわ。これで何もかもあたしの考えていたとおりなのよ。あたし、鮎川さんの胸に挿していた薔薇《ばら》が押しひしゃがれていたと聞いたとき、そしてこの像に血の痕がついていると伺ったとき、きっと薔薇も、鮎川さんがこの像にすがりついた時に、押しひしゃがれたに違いないと思ったのよ。とすれば、この像のどこかに薔薇の痕が残ってやしないかと思ったの」 「しかし、奥さん、ここに花粉がついてることがそんなに大事なことなんですか」 「あら、妹尾さん。まだお気づきになりません? この花粉は血痕と同じように、この像の右の胸についているんですよ。鮎川さんがこの像に真正面から抱きついた時、薔薇の花がへしゃげて花粉がついたとしたら、鮎川さんはその時、花を左の胸に挿していたことになりますわ」 「そ、それゃそうですね。しかし、それが……」 「あら、まだ、そんなことを言っていらっしゃる。鮎川さんはあの晩、左の胸に花を挿していたんですよ。それだのに酔っ払いの六さんはなんと言いまして? 女は右の胸に花を挿していたと言ってるそうじゃありませんか。つまり、六さんの眼には右と左と逆に見えたんですわ。右と左と逆に見える。それはどんな場合でしょう」 「右と左と逆に見える……?」 「ええ、そうよ。それはつまり、鏡に映った像の場合じゃありませんか」 「美穂子、そ、それじゃ……」 「ええ、そうなのよ。あたしはじめからそのことに気がついていたのよ。だってあたしこのアトリエのことはよく知っているんですもの。六さんの忍びこんだ窓というのも、だいたいそれと見当がつきましたわ。ほら、この窓、……ここがいちばん入りよいでしょう。ところがこの窓は少し外へ張り出しているので、窓の外からじゃこっちの壁が邪魔になって、ドアは見えないはずなのよ。それだのに、六さんは窓から外へとび出して、そこからひょいと振りかえったら、ドアの上の夜光時計が見えたというんでしょう。だから六さんの見たのはほんとうの時計ではなく……」  美穂子は広いアトリエを小走りに斜めにつっ切ると、ドアの真向かいの壁にかかっているサラセン模様のカーテンに手をかけた。 「沢村さんはお通夜の翌朝、何もご存じなくこのカーテンをお閉めになったんでしょう。これを開いたままにしてお置きになったら、警察の方だって、きっと気がおつきになったに違いないと思うんですけれど……」  美穂子がカーテンを開いた刹那《せつな》、窓際に立っていた三人は、思わず眼をそばだてた。今まで見えなかったドアやドアの上の夜光時計が、くっきりとそこに現われたからである。そこには大きな姿見が、壁いっぱいに張りつめてあるのだった。 「これでおわかりになったでしょう。あの晩六さんの見たものは、すべてこの鏡に映った像だったんですよ。酔っていたし、寝ぼけ眼《まなこ》だったし、それにスカイライトから漏れてくる月の光で見たんですから、六さんは鏡の像とは少しも気がつかなかったんですのね。ところで、鏡に映った十一時十五分はほんとうの時間で何時でしょう、一時十五分前……つまり十二時四十五分ですから、その時分には沢村さん、地主さんのお宅でお通夜をしていらっしゃいましたわ。いえいえ、それより鏡に映った犯人の左腕は、ほんとうは右の腕だったんですから、右腕のない沢村さんが犯人でないという、これほどたしかな証拠はございませんわ」 「すてきだ。美穂子、すてきだよ!」  賢太郎氏は手をたたいて喝采《かつさい》したが、藤田大佐と妹尾氏はなぜかにこりともしなかった。二人とも妙に深刻な顔をして、あらぬかたをながめている。御主人に喝采された美穂子さんも、しだいに蒼《あお》ざめていったが、それでも彼女はきれぎれにこんなことをいった。 「あたし……あたし……あたしの話はこれだけにしたいのでございます。あたし、どなたも傷つけたくはございません。今の話だけでも、沢村さんをお救いすることができると思いますから……でも、ここにロジックがございますの。そのロジックを推し進めていくと、鮎川さんを殺したの、どなただかわかるような気がするんです」 「奥さん。ひとつそれを聞かせてもらいましょうか」  そう尋ねた藤田老大佐の声があまり妙だったので、賢太郎氏と妹尾氏は思わずその顔を見直した。美穂子は硬張《こわば》った顔をしながら、それでも淀《よど》みない声でこんなことをいった。 「あたし、ほんとうにどなたにも傷をつけたくはございません。鮎川さんを殺した方にはそれ相当の理由がおありだったと思います。でも、でも、ロジックに人情はございません。そしてそのロジックを推し進めていくと犯人はどうしてもこの隣組の方だということになるのです。なぜって、鮎川さんを殺した犯人は、殺人の後で、床の血をふいたり、絨緞《じゆうたん》でそれを隠したりしています。犯人がそんなに落ち着いていられるのは、アトリエの主人が留守だということを知っていたからでございましょう。ところであの晩、お通夜の早番と遅番がきまったのは、夜の八時ごろのことでしたから、この隣組以外に、沢村さんが十二時以後、留守になることを知っている人は、まずないと見てよかろうと思います。ところでこの隣組に犯人があるとしても、十二時以後のお通夜に当たった、宅の主人と福井さんの御老人は除くことができます。そうすると早番に当たった三人ですが、そのうちの川口さんの奥さんは、ああいうお年寄りですから、ピストルで人を殺すことはできるとしても、後で死体を雑木林まで運ぶなんてことは不可能ですわね。そうすると後は藤田さんと妹尾《せのお》さんのお二人ということになります。つまり犯人はこのお二人のうちのどちらかなんです。ところで思いだすのは、死体の胸についていた薔薇《ばら》の位置ですが、これはたぶんこうだろうと思います。鮎川さんがあの像に抱きついて倒れた時、胸に挿《さ》した薔薇の花が抜けて落ちた、犯人は死体を運び出すとき、その花をもとどおりに挿しておこうとしたのですが、左の胸には血が吹き出している。それでつい何気なく右のほうへ挿したのだろうと思います。と、いうことはその人が女の洋装などに無関心な方、花など右へ挿そうが左へ挿そうがどっちだって構わないと思っていらっしゃる方……それは妹尾さんじゃありませんわね。だって妹尾さんはいつも奥さんの洋装に、それはそれはむつかしい注文がおありだということを伺っていますもの。そして、その犯人は軍隊用の拳銃《けんじゆう》を持っていらっしゃる方……」 「とうとうわしだということになりましたな」  藤田老大佐の声が気味悪いほど沈んでいたので、美穂子も賢太郎氏も妹尾氏も、ぎょっとしたようにその顔を見直した。 「いや、驚かれるのもごもっとも、しかしわしは笹井さんの奥さんから指名されるまでもなく、すでに覚悟はきめておりましたよ」  藤田大佐は優しい、沈んだ眼で美穂子を見ながら、 「そうですよ。千夜子を殺したのはわしだった。動機かな。動機は先年死んだ息子にある。馬鹿な息子はあの女にだまされて、さんざん苦しんだあげく、自殺したのです。しかし、わしもあの晩まではあの女を殺そうなどとは夢にも思うていなかった。運命だな。あの女にとっても、このわしにとっても悪いまわり合わせだったのだなあ。あの晩、お通夜からの帰りに、家の前でわしはあの女に会った。あの女はわしとは知らずに沢村君の家を尋ねたが、わしのほうではすぐあの女だと気がついた。そこで家へ入るとピストルを取り出し、すぐ女のあとを追っかけたんだ。しかし断わっておくが、その時わしはほかの者に罪をかぶせようなどという考えは毛頭なかった。ピストルを撃つ時も、左手をうしろへ回してねらいを定めたのだが、それが鏡に映っていて、右手のない沢村君に見違えられたなどとは夢にも知らなかった。また女の腕時計を十一時二十分にしておいたのも、そうしておけば自分が助かると思ったが、そのために、沢村君にこのような迷惑がかかろうなどとは思いも寄らぬことだった。沢村君に迷惑がかかってはならぬと思えばこそ、死体を外へ運び出し、床の血痕もふいておいたのに……。何もかも運命だな。悪い巡り合わせだったのだ。沢村君が引っ張られた時から、わしはもう覚悟をきめていましたよ。御覧、ここにわしの告白書がある。いざとなればこれで沢村君を救うつもりでいたのだが、奥さん、これはあなたにお預けしておこう。これがあなたのすばらしいロジックに対する、わしのせめてもの賞賛のしるしだと思ってください。さようなら、皆さんわしの始末はわしがつける。日ごろのお馴染《なじ》みがいに、これだけは大目に見てくださいよ」  藤田老大佐はしっかりとした足どりでアトリエを出ていったが、それから間もなく聞こえてきた銃声を耳にした時、美穂子は思わず夫の胸にくずれかかった。 「あなた、あなた、あたしは出すぎた女でしょうか。いけ好かない、小生意気なことをする、利口ぶった出しゃばり女でしょうか。あなた、あなた、あなた……」 [#改ページ] [#見出し]  アトリエの殺人     一  深緑《ふかみどり》色のビロードを思わせるようなねっとりとした闇《やみ》。——その闇の中に、さまざまなポーズをした女の顔がほの白くうきあがっている。  全裸体で長|椅子《いす》に寝そべってる女もあれば、翡翠《ひすい》の耳飾りをつけた支那《しな》服の女もある。ペルシャ猫《ねこ》と戯れている洋装の女もいれば、涼しげなうすものをまとうた日本趣味の女もある。そのほかに、少なくとも十人からの女が、闇の中にひっそり静まりかえっているのだが、不思議なことにそれらの女たちが、ポーズや服装《みなり》や髪かたちは変わっていても、みんな同じ女であるらしいことに、少し注意深い観察者なら気がついたことだろう。  その女たちは壁の上から、一様に床《ゆか》のある一点を凝視している。恐ろしそうに眉《まゆ》をひそめ、唇《くちびる》をふるわし、溜息《ためいき》をつき、ひそひそ話をしているが、やがてまた、黙りこくってもとのポーズにかえってしまう。……  月がスカイライトの真上にやってきたとみえて、不意に一道の光がこの闇をさしつらぬいた。そしてその光の中にくっきりと、男の姿がうきあがった。その男は白いタオルのパジャマを着たまま、床の上に仰向きに倒れている。苦痛にゆがんだ顔はすごいほど蒼《あお》くて、真っ白なパジャマの胸のあたりには、ドス黒い汚点《しみ》がついている。  その汚点が、静かに、音もなくひろがってゆくのを見たとき、そして、その男のそばに落ちているピストルが、まだかすかにうすけむりを吐いているのが眼にとまったとき、壁の上の女たちは、いっせいにまた溜息をつき、ざわざわとざわめき、中には取りかえしのつかぬことをしたのを悔やむように、呻《うめ》き声をもらしたものさえある。だが、それも束《つか》の間《ま》で、月の動きにしたがって、闇が光にとって代わると、女たちはふたたびもとのポーズにかえって黙りこんでしまう。闇はいよいよ深くなり、静けさは骨の髄を凍らせるかと思われるほども気味悪い。  だが……  諸君の眼がそのころまでに闇《やみ》に慣れてきていたとしたら、そこが画家のアトリエであることに気づかれたことだろう。そしてそのアトリエの中央に、心臓を撃ち貫かれて倒れているのが、このアトリエの主人であり、さっきからこの画家の死体を、無言のままながめている女たちというのが、壁にかけられた画家の制作品であることに気がつかれたことだろう。これらの作品の中には額縁におさまっているのもあれば、カンバスのまま、四|隅《すみ》をピンで壁にとめられているのもある。  だが……、諸君の眼がさらに闇に慣れてきたとしたら、その壁の上に少し不自然な空白ができていることに気がつかれたに違いない。そうだ、そこにもやっぱり画家の制作品がかかっていたはずなのだ。その証拠に、壁の上に四つのピンの跡が残っている。いったいだれがそれを剥《は》ぎとっていったのだろう。そして、なんのために……  だが、諸君がもう一度、床に倒れている画家の身辺に眼をそそいだら、そこにもう一つ不思議なことが起こっているのに気がついたに違いない。画家の死体を覆うて散乱しているきらきら光る細片……いったいあれはなんだろう。薄いガラスのかけらのように見えるのだが……  壁にかけられた女たちの、意味深い沈黙のうちに、時はしだいにうつってゆく。月光の代わりに、あかつきのほの白い薄明かりが、窓のすきから、スカイライトから、しだいにアトリエの中にしみ込んでくる。  やがて、空襲のために半分|廃墟《はいきよ》となったこの郊外の住宅地にも、ふたたび明け方の生活の息吹《いぶ》きがよみがえってきた。表を通る女学生の、小鳥のような笑い声、省線電車の駅へ急ぐお勤め人の靴音《くつおと》。——  午前八時ごろ、アトリエのドアが静かに外から開かれたかと思うと、そのすきから、年寄った女の顔がそっと中をのぞきこんだ。老婆の眼は一瞬、アトリエの中央に倒れている画家の死体に釘《くぎ》づけにされたが、やがて、その死体の胸を染めている黒い汚点《しみ》と、死体のそばに落ちているピストルに眼がとまると、老婆ははげしく唇《くちびる》をわななかせ、それからバターンと大きな音をさせてドアを閉めた。 「ひ、人殺しイッ!」  廊下を走っていく老婆の足音は、まるではじきとばされたもののようである。やがて表の往来で、ふたたび老婆の叫び声がする。 「ひ、人殺しイッ、だ、旦那《だんな》様が殺されて。……」     二  そもそもこのアトリエの主人というのは、池上新三郎といって、三|月《つき》ほど前に復員してきたばかりの若い画家である。  新三郎が応召中、このアトリエには友人の画家が住んでいたが、その男は新三郎が復員すると間もなくほかへ移ったので、近ごろでは新三郎と年とった老婢《ろうひ》の二人が、不自由な配給生活をつづけていた。  さて。——  新三郎の死体が発見された日の夕方ごろ、このアトリエへあわただしく駆けつけてきた男女がある。殺人事件を聞きつたえて、アトリエを遠巻きにしていた近所の人たちは、この女の姿を見ると思わず眼をそばだてた。それというのが、女の服装がいまどきにふさわしからぬほど贅沢《ぜいたく》だったからではない。その女というのがあまりにも美しかったからである。  ねっとりとした、真珠のような皮膚の光沢、猫属《びようぞく》のように柔軟な身のこなし、繊細で透きとおるような感じのする美しさ、あまり美しすぎて、どこか病的な感じさえする女である。女はアトリエの前まで来ると、ためらうように歩調をゆるめて、二、三度大きく息をうちへ引いた。 「どうかしたの?」 「いいえ」 「顔色が悪いよ。きみはやっぱり来なかったほうがよかったかもしれない」 「いいえ、いいんです。もう大丈夫です」 「そう、じゃ、手をとってあげよう。僕にすがっていたまえ」 「あら、いいんですの。人が見ていますわ」 「構わないじゃないか。そんなこと……」 「だって……」  女は甘えるように男の顔を見たが、近所の人がじろじろこちらを見ているのに気がつくと、うすく頬《ほお》を染めて、小走りに垣根《かきね》の中へ駆け込んだ。男は苦笑をもらしながら、大股《おおまた》にその後からついていく。  その男というのは、死んだ画家の池上新三郎と同じ年ごろで、身には職工のような油じんだ作業着をつけているが、広い額《ひたい》や、落ち着いた瞳《ひとみ》の色や、きっと結んだ唇には、高い教養と、深い英知の輝きが揺曳《ようえい》している。落ち着いた瞳の底には、深い悲しみが宿っていた。  二人がアトリエへ入っていくと、そこには精悍《せいかん》な顔をした警部が待っていた。 「さきほどはお電話をありがとうございました」  青年の慇懃《いんぎん》な挨拶《あいさつ》に、警部は驚いたように眼をパチクリさせた。 「あなたが相馬謙介《そうまけんすけ》さんですか」 「ええ、そうです」  謙介はかすかにほほえんだ。彼には、不思議そうに念を押す警部の気持ちがよくわかっていた。  謙介の父は近ごろ公職追放令にふれて引退したが、それでも今なお、財界の一方の隠然たる勢力を持っている一巨頭である。その御曹子《おんぞうし》である彼が、油じんだ職工服を着ていることは、たしかに妙に思われたに違いない。 「工場からすぐ駆けつけてきたものですから、着替えるひまもなくて……」 「現場《げんば》で働いていらっしゃるんですか」 「ええ、職工ですよ」  謙介はまたほほえんだ。警部はギゴチなく空咳《からせき》をすると、窓際に立っている女の後ろ姿に眼をやって、 「あの方は……?」 「ああ、あの人は僕の友達で、牧野斐紗子《まきのひさこ》さんという人です。池上とも古い知り合いですから途中寄って誘ってきたんですが……」  斐紗子がこちらを振り返ったとき、警部は思わず口笛を吹くように口をつぼめた。警部はこの女を知っていたのである。いや、本人に直接会ったのはいまはじめてであったけれど、その顔はさっきからいやというほど見せつけられている。裸体の女、支那服の女、ペルシャ猫の女、軽羅《けいら》の女……壁にかかっている女という女は、ことごとく斐紗子をモデルにしてかいたものであったから。 「ああ、そうですか。いや、それはけっこうでした」  謙介は、警部が意味ありげに自分たちの顔を見比べているのを気にもとめずに、 「時に……池上のなきがらは……?」 「ああ、それは向こうの日本間へ引きとらせました。検屍《けんし》も終わったので……すぐ、御覧になりますか」 「いや、その前にお話をお伺いしたいと思います。どうしてこんなことになったのか。……さっきのお電話では自殺とかおっしゃいましたね」 「いや、それがねえ……」  警部はまたギゴチなく空咳《からせき》をすると、 「あの時はそう思っていたのです。ピストルもそばに落ちていたし、そのピストルというのが軍隊用のものでしてね。たしかに池上君のものにちがいないというので、簡単に自殺ときめてかかったのですが、だんだん調べてみると、そうは簡単に考えられない節《ふし》もありましてね」 「と、おっしゃると……?」 「つまり、他殺の疑いが濃厚なんですよ」  窓際に立っていた斐紗子がはじかれたようにこちらを振り返った。そして大きくみはった眼であえぐように警部の口もとをながめていたが、しだいにこちらへ近づいてくると、謙介のそばへ寄りすがるようにして立った。 「他殺ですって?」  謙介は斐紗子の手を握ってやりながらそう尋ね返した。彼の息使いもいくらかはずんでいた。 「そうなんです。そうとしか思えないんです」 「で、犯人は……?」 「それはまだわかりませんがねえ。たぶん近ごろはやる強盗じゃないかと思うんです。この辺はまことに物騒ですからねえ。つい一週間ほど前にも、すぐこの向こうで強盗にやられた人がありましたよ」 「しかし、さっきのお話では、凶器は池上自身のピストルだとおっしゃったようですが」 「そうです、そうです。で、こういうふうに考えられるんですね。泥棒が忍び込んで、このアトリエの中をかき回していた。池上君はその物音を聞いて、ピストルを持ってここへやってこられたんですね。ところが逆にそのピストルでやられたと。……」  斐紗子はまた大きく息をうちへ引くと、ぎゅっと謙介の手を握りしめた。謙介はやさしく、力づけるようにその手を握りかえしながら、 「すると、格闘の跡でも……」 「いや、それは大したことはありませんでした。池上君はそこんところ、ほら、まだ血がこびりついてるでしょう、そこに倒れていたんですが、ただ、その死骸《しがい》の上にはガラスの破片がいちめんに散らかっていましてね」 「ガラスのかけら?」 「そう、電球が壊れて飛んだんですね。ほら……」  警部が指さす頭上を見れば、なるほどそこにぶら下がっている電気のソケットには、壊れた電球の金具だけが残っている。 「なるほど、すると格闘のはずみに、電球に何か当たって壊れたというわけですか」 「いや、私も最初部屋の様子を見たときは、そう考えたのですが、その後子細に調べてみて、そうでないことがわかりました。と、いうのは、ガラスのかけらは、死体の下には一つもなかったのです。みんな死体の上か周囲に散乱していたのです」 「なるほど、すると電球の壊れたのは、池上が倒れた後だということになるんですね」 「そうです、そうです。それで他殺の疑いが起こってきたわけです。つまり犯人は池上さんを殺した後で電球を壊していったんですが、なんのためにそんなことをしたのか、それがちょっとわからない」 「ちょっと待ってください。あなたのお話を聞いていると、犯人が故意に電球を壊していったように聞こえますが……」 「それはそうでしょう。電気はあんな高いところにぶら下がっているのだから、過《あやま》ちで壊すなんてことは考えられませんからね」 「もしや、ピストルの弾《たま》でも当たったのでは……?」 「いや、ピストルは一発しか発射されていませんでしたよ。そして池上君はその一発で殺されているんです。もっとも強盗が別にピストルを持っていたとすれば格別ですが、それなら何も池上君のピストルを使う必要はない。自分のピストルで殺したはずですからね」 「なるほど、それに電球のかけらは池上の死体の上に散っていたんですね」 「そうです、そうです。相手がもう死んでいるのに、ピストルをぶっ放すはずはない。だから過ちや偶然で、あの電球が壊れるはずはないのです」 「ひょっとすると、電気を消すためでは?」 「しかし、電気を消すためならば、何も電球をたたき壊す必要はない。スイッチをひねればよいのですからね。そのスイッチはドアを入ったすぐ右手についている……」 「しかし、強盗にはそのスイッチのありかがわからなかったのじゃありませんか」 「ところがねえ。犯人がこの電球をたたき壊すために使った道具もわかっているんですが、それは箒《ほうき》なんですよ。箒の先にガラスのかけらが若干《じやつかん》ささっているんです。だから犯人は池上君を殺した後で、わざわざ箒を持ち出して、電球を壊していってるんですが、その箒のかかっている場所というのが、スイッチのすぐそばなんです。だからその箒を取りに行った時、犯人の眼には当然、スイッチが映ったに違いない。もし、電気を消すのが目的ならば、そこで思い直してスイッチをひねるだけにとどめたはずだと思うんですがねえ」 「なるほど、すると犯人はなんのために電気を壊していったのか……むつかしい問題ですね」  謙介は斐紗子《ひさこ》の手を放して、アトリエの中を歩きまわる。急に突っぱなされた斐紗子は、頼りなげな眼つきで、その謙介の動きを追うている。謙介は急にまた立ち止まった。 「ところで、何か盗まれたものがあるんですか」 「それがねえ。妙なものを持ち出しているんですよ。テラコッタ——というんですか。土でこさえた焼物の女の首なんですがねえ。そこの台の上に載っかっていたんだそうです」 「テラコッタ? 斐紗子さん、君、覚えてる?」 「さあ。……」 「いや、それはもう見つかったんですよ。五、六町先きの草っ原の中に捨ててあったんです。思うに強盗先生、それを持ち出したものの重くもあるし、荷厄介《にやつかい》でもあるので、途中で捨てて逃げていったのですね」 「すると、結局、なくなったものは一つもないわけですか」 「いや、もう一つ、そこの壁んところがブランクになっているでしょう。そこに、額にはめない絵が一枚、ピンで止めてあったそうですが、それがなくなっているんです。だが、思うにこれはテラコッタをくるむために、ひっぺがしていったんですね。もっともこのほうはまだ見つからないが、どこかで破り捨てていったんでしょう」 「どんな絵だったかしら?」 「婆やの話によると、黒いシャツに黒い股引《ももひき》をつけた、つまり西洋映画に出てくる女賊みたいな服装《みなり》をした女らしいんですね。それがマスクをつけて、何かにおびえたような格好をした絵で、その絵の上に何やら字が書いてあったというんですが……」 「斐紗子さん、きみ、そんな絵覚えている?」 「さあ……」 「でも、ここにある絵、ほとんど全部きみがモデルだろ。その絵もやはり……」 「ええ、でも、ずいぶん昔のことだから……それにあの時分、ずいぶんいろんなポーズをとらされて……池上さんもあたしも、苦しい最中でしたから」 「ああ、どこかから頼まれたポスターの絵なんだね。いや、ありがとうございました。警部さん、それでは池上の死体を……」 「御案内しましょう。しかし、こちらは……?」 「あたし? あたし、どうしようかしら」 「ああ、きみはここにいたまえ。ふつうの死に方じゃない。会って気分でも悪くなっちゃたいへんだ」 「ええ……では……あなた、早く帰ってきてね」  警部は意味ありげに二人の顔を見比べていたが、やがて先に立ってアトリエを出ていった。謙介もその後からついていく。たった一人残った斐紗子は、窓際に立って、しだいに暗くなっていく庭をながめたが、急に思い出したようにはげしく身震いした。     三  相馬謙介と池上新三郎とは、中学時代のクラスメートであった。しかしそのころの二人は、まだ後年のような濃《こま》やかな交情は見られなかった。中学を出ると、二人は別々の道を歩いていって、間もなくお互いの存在をさえ忘れていたくらいである。  その二人が偶然再会したのは、上野の絵画展覧会の会場であった。その年池上の絵が特選になって、新聞に大きく名前が出たので、謙介はゆくりなくも旧友のことを思い出し、その絵に敬意を表するために、上野へ出かけていったのである。  当時の池上新三郎は貧窮のどん底にあえいでいた。その日その日の生活のために、雑誌の口絵や商品のポスターかきに、あまり丈夫でない体を酷使しなければならぬ境遇にあった。それは官展で特選になったからといって、大して変わりはなかった。日本画だと、室内の装飾芸術でもあり、また画商の制度も発達しているから、一度特選にでもなると、あとはどうにかやってゆける。しかし日本画に比べてはるかに需要の少ない洋画では、なかなかそうはいかないのである。  謙介はこの友人の才能が、生活のために切り売りされているのを気の毒に思って、自らパトロンの位置を買って出た。二人の交情が兄弟《きようだい》よりも濃やかなものになったのはそれからのちのことである。謙介の剛毅《ごうき》で果断な性質に反して、新三郎は心の優しい、それこそ神のように弱い男だった。年も新三郎のほうが一つ下だった。謙介はこの年少の友を、真実の弟のように愛《め》でいつくしんだのである。  謙介が牧野斐紗子と相知ったのは、新三郎をとおしてであった。斐紗子は当時、左翼的傾向をおびている新劇団に属していたが、彼女のすばらしい美貌《びぼう》にもかかわらず、舞台の業績ははなはだ芳《かんば》しくなかった。先天的に彼女は女優に不向きにできていたうえに、美貌はかえってしばしば彼女の役の邪魔になった。  こうして不遇な新劇女優と不遇な洋画家とは、いつかしだいに接近していった。当時新三郎が身すぎ世すぎにかいていた雑誌の表紙やポスターには、いつも斐紗子がモデルになった。  そこへ謙介が出現したのである。そして新三郎の幸福は、当然斐紗子の幸福でもあった。だが、その幸福はあまり長くはつづかなかった。事変がしだいに深刻になり、そしてとうとう今度の戦争がはじまった。まず新三郎が応召し、それから一月《ひとつき》もたたぬうちに、謙介が応召した。  新三郎は遠くニューギニアまで持っていかれたが、謙介の行く先は朝鮮であった。だから戦争が終わると謙介は比較的早く復員したのである。復員した彼はなんと思ったのか、応召以前についていた、父の関係会社の重役の地位を惜しげもなくかなぐり捨てて、やはり父の関係会社ではあったけれど、一職工として現場に潜りこんだ。  こうして油まみれになって働いているうちに、ある日彼はゆくりなくも街で斐紗子に会った。すると二、三日して斐紗子のほうから彼を訪ねてきた。用件というのは、こんど新しく新劇団を組織するにつき、資金を融通してくれないかというのであった。謙介は快くそれを引き受けたばかりか、二、三度|稽古《けいこ》を見にいったりしたが、そのうちに斐紗子と了解ができて、婚約したのである。そこへ池上新三郎が復員してきた。……そして、……そして二人の婚約を聞くと、新三郎は心の底から喜んでくれたが。……  ふと背後に足音を聞いた斐紗子は、窓際でくるりとうしろを振り返ったが、すでに薄暗くなりかけているアトリエの中へ、その時、よろめくように入ってきた謙介の姿を見ると、驚いたように駆け寄った。 「あなたどうかなすって、お顔の色がとても悪いわ」 「そう」  謙介はそっけなくいうと、顔をそむけるようにしてアトリエの中央へ歩いていった。そして大きなデスクの上に積み重ねてある、古い雑誌をひっくり返していたが、やがてその中から一冊を抜きとると、薄暗がりの中で裏表紙をながめていたが、その額《ひたい》にはみるみる苦悶《くもん》の色がひろがっていった。彼はそれをデスクの上に伏せると、蝋燭《ろうそく》を探し出して灯《ひ》をつけた。 「牧野君、ここへ来たまえ」 「あなた、どうなすったの。警部さんは?」 「警部は帰った。だからだれにも気兼ねなしに話ができるんだ。ここへ来たまえ」 「話って……?」 「池上を殺した犯人がわかったのだ」  デスクのほうへ歩いてきかけた斐紗子は、ぎょっとしたように立ちすくんで、蝋燭の灯の向こうにある謙介の顔を見直した。 「そして……そして、犯人がなぜ電気をたたき壊したのか、また、なぜテラコッタと向こうの壁にかかっていた絵を持ち出したのか、そのわけがわかったのだ」 「あなた……あなた……」  斐紗子はあえぐようにいった。だが、なぜかいま立ち止まっている場所から一歩も前進しようとしなかった。いや、動くにも動けなかったといったほうがほんとうだろう。だが、謙介はそんなことにはお構いなしで、容赦なく言葉をつづけた。 「僕は池上の死体を見た。それから、池上が殺された時着ていたタオル地のパジャマを見た。そのパジャマにはガラスのかけらがいっぱい刺さっていた」 「電球が……電球の壊れたかけらでしょう」 「そうだ。その大半は。……しかし、たった一片だったけれど、そしてごく小さいかけらだったけれど、電球とはちがった質のガラスのかけらが刺さっているのに気がついたのだ」 「あなた、……あなた……」 「それは時計の蓋《ふた》ガラスなのだ。池上は絶対に腕時計をしない男だった。パジャマを着て懐中時計を持っている奴《やつ》もあるまい。だからそれは犯人の腕時計だとしか思えない。つまり、犯人と池上がもみ合うはずみに、犯人の腕時計のガラスが壊れて、池上のパジャマに刺さったのだ。そこで犯人はどうしたか。むろん、壊れたガラスのかけらをかき集めたに違いない。しかし、粉々《こなごな》に壊れたガラス、しかもタオル地のパジャマに刺さったやつを、完全にかき集めるということは不可能だ。それにいつ人が来るかもしれないから落ち着いてもいられないんだ。そこで犯人は何をしたか。腕時計のガラスをカモフラージするために、電球をたたき壊した……電球のかけらによって、腕時計のかけらをカモフラージしようとしたのだ」 「あなた、もうたくさん、もういいから帰りましょう。ねえ、こんなに暗くなったのに……」 「だが……」  と謙介は容赦なく言葉をつづけるのである。 「ここで考えなければならないのは、なぜ犯人がそんなに腕時計のかけらを残すことを気にしたか。通りがかりの強盗なら、そんなにまでして、そのかけらをカモフラージする必要はないと思われる。腕時計のガラスにいちいち目印がついているわけはないからね。しかし、もし犯人が池上の身近なものだったら、話はおのずから違ってくる。死体に腕時計のガラスが刺さっており、その人物の腕時計のガラスが壊れているということになれば、すぐ疑いがかかってくる。近ごろでは腕時計のガラスといえども、容易に、簡単に直すわけにはいかないからね。だからその人物は、腕時計の壊れたことを絶対に人に知られたくなかった。そこで電球をたたき壊さねばならなかったのだ。牧野君。きみは腕時計をどうしたのだ」  斐紗子はくずれるように床《ゆか》に膝《ひざ》をついた。 「さっきここへ来る途中時間を訊《き》いたら、きみは腕時計を忘れてきたといったね。しかし、あの腕時計は婚約ができたとき僕があげたものだ。きみは僕の歓心を買うために、僕に会う時はいつだってあの時計をはめていないことのない女だ。——まだガラスの修繕ができないとみえるね」  斐紗子は両手で顔を覆うと、うめくようにすすり泣きの声をあげた。しかし、謙介の心はもうすすり泣きでは動かされない。 「さっき警部が、この壁からなくなっている絵の図柄を話したとき、きみは覚えがないといったね。しかし、あんなに変わったポーズ、僕でさえすぐ思い出した絵を、モデルであるきみが思い出さぬというはずはない。僕はあの時、ちょっと妙に思ったのだが、見たまえ、その絵はここにある」  謙介が差し出したのは、さっき探し出した雑誌の裏表紙であった。そこには警部もいったとおり、西洋映画に出てくる女賊のような黒装束《くろしようぞく》をした覆面の女が、物におびえたように鞭《むち》をふりあげている。その鞭の先には、大きく、明るく輝いている電球があり、そしてその絵の上にはつぎのような文句が書いてある。   ——光は罪悪を駆逐する。    ——夜は明るくサクラ電球で。  サクラ電球の広告なのである。 「壊れた腕時計のガラスの始末に困っている時、きみの眼にふと映ったのが、壁にかかっていたこの広告の原画なんだ。それがきみに電球を壊すことを教えた。それだけにきみはこの絵をここへ残しておくことを恐れたのだ。そこできみはその絵を持っていこうとしたが、ただそれだけを持っていったのでは怪しまれるので、テラコッタを持ち出した。テラコッタをくるむために、剥《は》ぎとったと思わせるために。……きみというひとはそういう人なのだ。腕時計のガラスをカモフラージするために電球を壊す。ポスターを持ち出すためにテラコッタを持ち出す。そういう回りくどい知恵の出るひとなのだ。きみは……僕はそれがいやだ」  謙介は吐き出すようにいうと、帽子をつかんで立ち上がった。 「きみと婚約するときに僕はきみにこういうことをいった。自分はいままで純潔を守り通してきたのだから、自分の妻となるべき人も、純潔であってもらいたいと。……その時、きみは絶対に純潔だと誓ったね。しかし、池上が帰ってきたとき、そして彼の前で二人の婚約を発表したとき、僕はすぐ、きみたちのあいだに何かあったに違いないことに気がついた。だが、僕はそのことについては何も言わないつもりだった。いったん婚約した以上、いまさら過去を追究したところで仕方がないと思っていたのだ。きみと池上の仲が過去においてどんなものであったにしろ、僕はきみに自分を愛させてみせると思っていたし、また自信も持っていた。池上には気の毒だが何か別の方法で償いをすることができると思っていたのだ。池上もまた悲しみは別として、われわれの婚約を心から喜んでいてくれた。あの男は二心《ふたごころ》を持つような男ではない。きみを裏切って、昔の秘密を僕に打ち明けるような人物じゃない。それだのに……それだのに……」  謙介はちょっと息をのんだが、すぐまた言葉をつづけて、 「きみはそれでは安心できなかったのだ。腕時計のガラスを電球でカモフラージしたり、ポスター絵を持ち出すために、テラコッタを持ち出したりするきみの利口さが、それではきみを安心させなかったのだ。そこで……そこで池上の口を封じるために殺してしまったのだ」 「あなた……あなた……あたしはあなたを愛していたのですわ」 「ありがとう。僕もそれは信じている。まさかきみの愛していたのは僕の財産ではなかったろう。だからきみの殺したのがほかの男だったら、そしてもっとほかの理由だったら、僕もきみを赦《ゆる》せたかもしれない。しかし……しかし、池上のような善良な男を……神のように弱い優しい池上を……僕はだから赦せないのだ。……さようなら」 「あなた」 「安心したまえ。僕はこのことをだれにも言いはしない。腕時計のガラスに気がついたのは僕だけだ。警部はなにも知ってはいない」 「あたしは……あたしはどうしたらいいの」 「きみの気持ちひとつだよ」  謙介は帽子をかぶって出ていった。斐紗子は長いこと、身動きもしないで床に座っていたが、やがてものうげに立ち上がると、さっき謙介が腰を下ろしていた椅子《いす》によろめくようにくずおれた。  と、明滅する蝋燭《ろうそく》の光の中に、謙介がおいていった雑誌の裏表紙が、そのままそこにひろがっているのが眼についた。斐紗子はうめくような声でその広告の文句を読む。     ——光は罪悪を駆逐する。 [#改ページ] [#見出し]  女写真師     一  このあいだ、古い外国雑誌を読んでいたら、四十分間に一つの割合で人殺しが行なわれるということが出ていたが、なんと怖いことではないか。それもファースト・ディグリー・マーダーすなわち、第一級の殺人というのだから、戦争や無頼漢《ぶらいかん》の喧嘩《けんか》や、医者の見立てちがいから起こる過失の殺人などではなく、ほんとうの殺人、すなわち謀殺を指すらしいのである。いよいよもって恐ろしいことではないか。  もっともこれは外国の話だが、同じ人間が形成している社会である以上、日本だって大差はあるまい。あるいは終戦後の、このように人心険悪な時代では、日本のほうがひどいかもしれぬ。いま仮に日本に限ってそんなことはない。四十分に一つなんて、そんなべらぼうな話はないという人があったら、一時間に一つとしてもいい、いや、大負けに負けて、二時間に一つと譲歩してもかまわない。いずれにしても、恐ろしいことに少しも変わりはないではないか。  だって考えてみたまえ。いま私がこんなことを書いているあいだにだって、日本のどこかで人殺しが行なわれているかもしれないのだ。あるいは一時間後に起こる殺人事件のために、悪賢《わるがしこ》い犯人が、いまネチネチと悪賢い人殺しの準備をすすめている最中かもしれないのだ。いや、ひょっとすると人殺しはすでに終わって、死体の後始末をしているところかもしれぬ。いやいやいや、これをもっと突っ込んで考えると、さらに恐ろしいことになってくる。すなわち、あるところではいま犯人が人殺しの準備をすすめているところであり、あるところではこの瞬間に人が殺されており、さらにまた別のところでは別の犯人が、すでに終わった人殺しの後始末をしているところかもしれないではないか。  こんなふうに考えていると、私はいても立ってもおれないような気がする。二時間に一つの割合で行なわれる人殺しが、いつも私から遠く離れた、知らぬ他国である場合はよいが、いつかめぐりめぐってそれが私の身近で、しかもその被害者がかくいう私ということにならぬとも限らぬ。こういううちにも、悪賢い犯人が私を殺そうとして、目下着々とその準備をすすめているかもしれないのだ。……  と、こんなことをいうと、諸君はきっと私の精神状態を疑うだろう。おまえは少し気が変になっているのではないか。発狂していないまでも、悪性の神経衰弱かなにかにかかっているのではないか。——などとおっしゃる方があるかもしれない。まさにそのとおりである。  私はいま神経衰弱にかかっている。一種の恐怖症というか強迫観念というか、とにかくふつうでない精神状態におかれている。だが、諸君、まさか私だって、古い外国雑誌を読んだだけで、こんなに恐れおののいているのではない。これにはわけがあるのだ。恐ろしいわけがあるのだ。そのわけというのを、諸君、ひとつ聴いてください。聴いてくださいますか。     二  だが、そのわけをお話しする前に、ひととおり私の身の上話からお聴かせしておかなければなりますまい。  私、名前は成瀬順吉《なるせじゆんきち》。当年とって二十七歳。さきごろ復員してきたばかりで、目下《もつか》S市にあるS病院で薬局を手伝っている。  このS市というのは諸君も御存じであろう。信州のほぼ中央にあって、有名なS湖に向かった町である。戦争前にはスキーやスケートやハイキングの客で、年中にぎわったのだが、終戦後はそういう客の代わりに、東京からの疎開者で、おそろしく町が膨張している。  私はこのS市の生まれで、二十の年に町の中学を出て、それから東京にある上級学校を二、三受けたが、いずれもみごとに失敗して、ぐずぐずしているうちに兵隊にとられて海軍へ持っていかれた。そして足かけ七年、海外でさんざん苦労したあげく、終戦でやっと帰ってくると、両親とも亡くなっている。そこで仕方なしに病院を経営している伯父《おじ》のもとへ身を寄せたわけだ。  思えばはかないのは私の身の上だ。いまとなってはもう学校へ行く気にもなれないし、たとえ行く気になったとしても、現在のような状態では、上京など思いも寄らぬ。しぜん私はゆううつならざるを得ないのだ。幸い伯父の病院はたいそうはやっているので、目下のところ薬局を手伝って、どうにかその日その日を過ごしているが、いつまでもこんなことをやっているわけにはいくまい。とはいえ中学を出たばかりの私に、将来何ができようか。こんなことを考えていると、私は世の中が妙に不安になってくる。将来のことを思うと、暗澹《あんたん》たる気持ちになる。  と、いうわけで私はとうとう神経衰弱になってしまった。そして気が沈んだり、妙に心細くなったりしているうちはまだよかったが、それがしだいに昂《こう》じて、私はかなりひどい不眠症にかかってしまった。そしてこのことが、これからお話ししようとするこの恐ろしい物語に、たいへん大きな関係を持っているのだ。  さて、私のいまいるS病院というのは、事変のはじまる直前に伯父が建てたもので、敷地は大して広くはないが、鉄筋コンクリートの三階建てになっている。だから、この屋上に立つとS市はいうに及ばず、町の向こうにある湖水から、さらにその湖水を越えて対岸のO市まで見渡すことができる。不眠症にとりつかれた私には、この屋上こそ格好の憂《う》さ晴らしの場所であった。  毎夜毎夜眠られぬままに、私はこっそり自分の部屋をぬけ出して、この屋上へのぼっていく。寝しずまった深夜の町、その向こうに薄白く光っている湖水、さらにその湖水の向こうに点々として明滅しているO市の燈火。——まっくらな病院の屋上に立って、そういう世界をながめていると、私はほんとうにこの世の中にひとりぼっちだという気がしてくる。なんともいえない心細い、しかしどこかに甘さのひそんでいそうな物悲しさが胸にみちあふれてきて、私は思わずホロホロと不覚の涙を流すのだ。  諸君よ、私の感傷を笑ってください。まったくこういう感傷を笑われている間はまだよかったのだ。ところがふとしたことから、私は一時そういう感傷をすっかり忘れてしまった。そしてその代わりにこんどは、なんともいえぬ恐ろしい経験をしなければならなくなったのだ。  それはいまからひと月ほど前のことである。例によって真夜中ごろこの屋上へのぼっていった私は、湖水のほうへ向いた胸壁《きようへき》にもたれて、わけもなく甘い涙にそそられていたのだが、するとだしぬけに眼の下がぱっと明るくなったので、驚いてそのほうへ眼をやった。  それは病院のすぐ裏側にある写真館のスタジオに灯《ひ》がともったのであった。  この写真館はアザミといって、距離からいえば病院にいちばん接近しているが、背中合わせに建っているから、そこへ行くためにはぐるりと町をひとまわりしなければならない。したがって隣組もちがっており、伯父の家ともあまりおつきあいはないが、私はこの写真館の主人であるところの写真師が女であることに、だいぶ前から好奇心をおぼえていた。  この女写真師は名前を尾形貞子《おがたさだこ》といって、年は三十前後だが、男をも圧倒するようなりっぱな体格をしている。身長なども私よりだいぶ高い。いつも男のズボンをはき、毛糸のジャンパーか何か着ている。髪はもちろん断髪で、ナイトキャップみたいなベレー帽を、いつも横っちょにかぶっている。そして声なども男のように低くてしゃがれている。  しかし顔は醜いほうではない。色は浅黒くそれにいつもお化粧などしていないが、眼、鼻、口、いずれもくっきりと大きくて、聡明《そうめい》そうな顔をしている。しかしそういう顔の造作《ぞうさく》にも、多分に男性的なところがあるので、町の若い連中は、あいつ中性だよなどと悪口を言っている。中性かどうかは私も知らぬが、とにかくいまだに独身で、助手とも女中ともつかぬ小娘と二人きりで住んでいる。そういうところから、いっそう変なことを言われるのかもしれない。  それはさておき、そのアザミ写真館のスタジオにあかあかと灯がついたのだから、私は大いに怪しんだ。時刻は真夜中の一時を過ぎているはずである。こんな時間に写真をうつしにくる客があろうとは思えない。あの中性という噂《うわさ》のある女写真師が、この時刻にいったい何をしているのだろう。  そう考えると私はもう感傷どころではなく、なんとかしてあのスタジオをのぞいてやりたいものだと、はげしい好奇心のとりことなった。それというのがどの写真館でもそうであるように、このアザミのスタジオもほとんど全部がガラス張りで、私のいまいる屋上から、少し体を乗り出せば、屋根の天窓から中がのぞけそうな気がしたからだ。  そこで私はあちこちと、体の位置を変えてみたが、どうもうまくのぞけない。磨《すり》ガラスで張った部分が邪魔をして、屋上に立っていたのでは、どうしても中がのぞけないようにできているのだ。だが、人間というものは、困難が加われば加わるほど、いっそう好奇心をあおられるものとみえて、私はとうとう一計を案出した。  この屋上の胸壁には、ところどころ鉄の環《かん》がぶちこんである。これはガーゼや包帯の洗濯《せんたく》物を干す場合、綱を張るためにこさえてあるのだが、私はそれに気がつくと、しめていた帯を解いて、その一端をしっかり鉄の環に結びつけた。そうしておいて胸壁を乗り越えると、壁の外側を取りまいている軒蛇腹《のきじやばら》に足を踏んばり、帯の他の端をつかんで、うんと体を斜めに乗り出したのである。  まったくそれは千番に一番のかねあいともいうべき芸当で、まかりまちがえば三階の屋上からまっさかさまに転落しなければならないのだが、しかし、その芸当のおかげで、私は首尾よく天窓からスタジオの中をのぞきこむことができたのである。そして……そして……私はいまでも思うのである。よくもあの時、久米《くめ》の仙人《せんにん》みたいに下界へ転げ落ちなかったものだと。     三  まずその時私の眼に映ったのは、スタジオの一|隅《ぐう》にある大きな長|椅子《いす》だが、なんとその長椅子には、裸体にも近い薄物《うすもの》姿の女が一人、仰向けに寝転んでいるではないか。顔はよく見えないが、両手を頭のうしろに組んで、片脚をもう一方の脚の上に重ねている。薄物がぴったりと肌《はだ》について美しい曲線の悩ましさ。むっちりとした乳房のふくらみ、腹から腰へかけての心をかき乱すような曲線、肉づきのよい太股《ふともも》から脚。——そういう姿が惜し気もなく、白熱光のもとにさらけ出されているのだから、ひとめそれを見たとたん、危うく私が久米の仙人の二の舞いを演じそうになったのも無理ではあるまい、私は体中がかあっと燃えるように熱くなるのをおぼえた。心臓がドキドキして、全身からヌラヌラとした汗が吹き出した。  それにしてもあの女はいったい何者だろう。なぜあんな格好をしているのだろう。……私は胸をドキドキさせながら、しかし心の一方ではそんなふうに怪しんでいたが、その疑いはすぐに氷解した。その時、ドカーンとマグネシウムを焚《た》く音がしたかと思うと、白い閃光《せんこう》がぱっとスタジオの中を走ったからである。女は写真をとっていたのである。  やがて女は笑いながら長椅子から起き上がったが、それではじめて私はこの女が井原喜多子《いはらきたこ》であることに気がついた。  井原喜多子というのは、私が復員する前から、この町に疎開してきている女で、もとは浅草のレビュー劇団で、下っぱ女優をしていたという評判だ。それがこっちへ来てからつかまえたのか、それとも以前から交渉があったのか、こんどの戦争でしこたま儲《もう》けた町の軍需工場の親方をまんまと籠絡《ろうらく》して、戦争中からさかんに土地の風俗を乱したという噂《うわさ》がある。  この女は時々なんでもない病気でこの病院へやってくるので、私もかなりよく知っているが、レビュー劇団における彼女の地位がどんなものであったにしろ、たしかに美人にちがいないと思っている。そして相手が美人でさえあれば、私のように年若い男にとっては、悪い噂なんてどうでもよいものだ。いやいや、悪い噂があればあるほど、いっそう心を惹《ひ》かれるものなのだ。私はいつもこの女が病院へ現われるたびに心臓をドキドキとさせ、いつの間にか相手が私の名前をおぼえていて、なれなれしく声をかけたりすると、真っ赤になって返事をする声さえふるえるのだ。そしてその様子がおかしいといっては、薬局書生の河野耕平《かわのこうへい》の奴《やつ》に笑われるのだ。  その井原喜多子である。その井原喜多子が、裸体に近い薄物姿を、惜し気もなく、白熱光のもとにさらけ出しているのだから、私がいかに戦慄《せんりつ》したか、それはよろしく諸君の御想像にまかせよう。  さて、喜多子が笑いながら、手振り身振りで何かいうと、いままで見えないところにいた女写真師の尾形貞子がケープのようなものを持ってやってきた。そしてそれですっぽりと喜多子の体をくるんでやると、二人はそのままスタジオから出ていったらしく、間もなく白熱燈の光も消えて、あたりはまっくらになってしまった。  これが最初の夜の私の冒険だが、このことが私にどんなに深い印象を与えたか、今さらここで申し上げるまでもあるまい。その晩とうとう私は眠れなかった。眠ろうとしても、あの井原喜多子の悩ましい姿態が眼について、どうしても眠ることができないのだ。それにしてもあの女は、なんだってあんな悩ましい写真をとったのだろう。世の中にはああいうふうな海水着美人の写真などがよくあるが、そういう写真のモデルとなるのは、たいてい有名な映画女優かなんかにきまっている。井原喜多子は美人だが、それほど有名な女優とは思えない。  私は眠れぬままに夜じゅう寝返りを打ちながら、考えに考えたが、やがて考えくたびれると、そんなことはどうでもよくなった。井原がなぜあんなまねをしようと、動機なんか問題ではない。私にとっての問題は、井原のあの姿だ。あの肢態《したい》だ。あの肉体なのだ。ああ!……と、そこで私がそれからのちはいよいよますます真夜中の屋上に心を惹かれていったことは、事新しくお話しするまでもあるまい。  しかし、柳の下にどじょうのたとえのとおり、そういつも井原喜多子のあの美しい姿を見るというわけにはいかなかった。あのことがあってから一週間あまり、私はいたずらにまっくらな屋上で、むだな時間を過ごしたのだが、するとある晩、またあのスタジオに明るい白熱燈がついたのである。そして私はふたたび井原のあの美しい、悩ましい、心をかき乱すような姿を見たのだ。  だが、そのことは結局最初の夜の経験のくりかえしにすぎないから、ここでははしょらせていただくとして、とにかく一月《ひとつき》ほどの間に、私は四度そういう場面を目撃したのだ。  そして一昨日の晩、私はまたも、五度目の経験をしたのだったが、こんどはいままでといささかちがっていた。そしてそれはなんともいえぬ恐ろしい意味を持っていたのである。  一昨日の晩、またもやあのスタジオに白熱燈がついたので、例によって私が久米の仙人的曲芸によってのぞいてみると、意外なことにはその晩の井原喜多子はちゃんと着物を着ていた。それのみならず井原のそばには一人の男が腰をおろしているのである。その男は黒っぽい洋服を着ていたが、帽子をまぶかにかぶって向こう向きになっているので、顔は全然見えなかった。  二人はしばらく長椅子に腰をおろしたまま話をしていたが、やがて井原が向こうのほうを見ながら何かいうと、男が立ち上がってそのほうへ行った。たぶんそこに写真機がすえてあるのだろうが、それは私のいるところからは見えなかった。さて、男の姿が見えなくなると間もなく、女写真師の尾形貞子が現われると、長椅子に腰をおろしている井原の位置を直したり、着物の裾《すそ》をつくろったりした。  井原喜多子はそのたびにおもしろそうに笑っていたが、やがて尾形の姿がもとの方向へ消えると、入れ違いに間もなくさっきの男がやってきて喜多子のそばへ腰をおろした。なんだ、それでは今夜は男と二人で写真をうつすのかと思っていると、いきなり男が井原の体を抱いて、顔を寄せていった。井原のほうでも男の背中に両手をかけて、自分のほうへ抱き寄せたが、その時井原は右手になにやら白いものを持っていた。私はたぶんハンカチだろうと思ったが、その瞬間、ドカーンとマグネシウムを焚く音がしたのである。ああ、なんと今夜の井原は、男と接吻《せつぷん》しているところを写真にとらせたのである。  私はなんともいえぬいまいましさを感じたことだが、やがてマグネシウムの煙がおさまると、男は井原の体を抱いて、私の見えないところへ行ってしまった。と、すぐ女写真師の尾形が現われて、長椅子の辺を直していたがやがてこれも見えなくなると、すぐスタジオの灯が消えてしまったのである。  私はその時、顔も見えなかったその男に対して、なんともいえぬ妬《ねた》ましさを感じたものだが、しかし、その時のただそれだけの情景に、あのように恐ろしい意味があろうとは、夢にも私は知らなかったのである。     四  私がその恐ろしい意味に感づいたのは昨日の朝のことである。  私の伯父《おじ》は町の警察の嘱託で、警察医をやっているのだが、その伯父のもとへ朝早く電話がかかってきて、湖水に女の死体があがったからすぐ来てもらいたいということであった。そこで伯父はすぐに出かけていったが、さて帰ってきての伯父の話を聞いて、私は天地がひっくり返るほど驚いたのである。女の死体というのは井原喜多子であり、しかも彼女は溺死《できし》したのではなく、心臓をみごとにえぐられているというのだ。つまり殺されてから湖水へ投げ込まれたらしいというのである。 「伯父さん、そして殺されたのは、およそ何時ごろのことなんですか」  私の顔色が変わっていたのだろう。伯父は怪しむように私の顔を見ながら、 「死後八、九時間、というところだから、昨夜の一時から二時までの間ということになるね。だが順吉、おまえどうかしたのかい、ひどく顔色がよくないぜ」 「い、いいえ、なんでもないんです。なんだか今朝から妙にゾクゾクして……」 「風邪《かぜ》でも引いたんだろう。あまり気分が悪いようなら、休んでもいいぜ、薬局のほうは河野がいるから大丈夫だ」 「はい、では、……そうさせていただきます」  私は倉皇《そうこう》として三階にある自分の部屋へ引き揚げたが、すると、私を追っかけるようにして入ってきたのは薬局生の河野耕平だ。 「成瀬さん、たいへんなことになりましたなあ」  いったい私はこの河野耕平という男が大きらいであった。年は私より二つ下で、これまた終戦と同時に復員してきた男だが、にきびだらけの醜怪な顔つきといい、妙にきょろきょろしている八方にらみの眼つきといい、それから舌たらずみたいなネチネチした口の利き方といい、馬鹿か利口かえたいの知れぬような男で、私は大いに軽蔑《けいべつ》すると同時にどこかまた、大いにこの男を恐れてもいたのだ。 「なんだい、河野君、たいへんなことって……」  そこで私がわざとそっけなくいうと、河野耕平はにやにや笑いながら、 「はははは、白ばくれることはありませんぜ。私ゃちゃんと知ってるんでさ。ねえ、成瀬さん、井原喜多子は昨夜あのスタジオで殺されたんじゃありますまいか」  それをきくと私は跳び上がるほど驚いた。 「な、な、なんだって、それじゃ君もあれを見ていたのか」 「ええ、見てましたよ。昨夜ばかりじゃありませんや。だいぶ前からスタジオのあの一件は知っていましたよ。だってスタジオに灯がつくと、私の部屋の窓も昼みたいに明るくなるんで、とても寝ていられませんや。それであなたのまねをして、天窓のぞきをやらかしたんです。あなたも人が悪いなあ。自分一人で楽しもうなんて……へへへ、だから私ゃ聖人面をしている人はきらいだというんです」  私は思わず赧《あか》くなった。 「ははははは、赧くなりましたね。だが、まあそのことは勘弁してあげましょう。しかし、昨夜のことはどうしましょう。みすみす人殺しの現場《げんば》を見ていながら、黙ってるわけにはいきますまい」 「それじゃきみは、井原は昨夜、あのスタジオで殺されたというのか」 「おや、それじゃあなたはまだ気がついていないんですか」  河野耕平はあざわらうように鼻を鳴らした。 「気がつかないってなんのことさ」 「昨夜井原は、変な男と接吻しましたね。そしてそこを写真にとらせましたねえ。ところが接吻が終わった後、井原はどうしました。男に抱かれてスタジオを出ていったじゃありませんか。あの時井原は妙にぐったりとして、顔色なんかも真《ま》っ蒼《さお》でしたよ」  それを聞くと私は思わずふるえ上がった。そういえば河野のいうとおりである。あの時の井原喜多子のぐんにゃりとした肢態《したい》は、なんとなく私も気になっていたのだ。 「そ、それじゃきみは、井原はあの接吻の最中に、男にえぐられたというのかい」 「そうですよ。声が聞こえなかったなあ、あのドカーンというマグネシウムの音に消されたんですよ」 「しかし、……しかし、それなら写真師の尾形貞子がなんとか言いそうなものじゃないか。それとも、きみは、あの尾形も共犯者だというのかい?」  すると河野耕平は、またあざわらうように鼻を鳴らした。 「あなたはあの男の顔を見ましたか」  私が黙って首を横にふると、 「そうでしょう。私も見ませんでしたよ。しかし、あの男にどこか特徴がありゃしませんでしたか。身振りとか、歩き振りとかに……」 「ああ、そういえばあの男、ごくかすかにではあったけれど、跛《びつこ》をひいていた。……」 「そうでしょう、そうでしょう。ところがねえ、成瀬さん、裏の写真屋の尾形貞子も、二、三日前から跛をひいているんですぜ」 「な、な、なんだって。……そ、そんな馬鹿なことが……」 「何が馬鹿なんです。あなたも私も、男の顔はちっとも見ていないんでしょう。しかも、あの男と尾形貞子は、一度もいっしょにわれわれの眼の前に現われませんでしたぜ。男が井原といっしょに長椅子に腰をおろしているあいだは、尾形の姿は見えなかった。尾形がわれわれに見えるところへやってきたのは、男が一時姿を消してからだった。そしてその尾形がまた姿を消すと同時に男がやってきたじゃありませんか。そして最後に、男が井原の体を抱いて見えなくなると、間もなく尾形の姿が見えたじゃありませんか」 「それじゃきみは、あれは尾形貞子の一人二役だったというのか」 「そうです。尾形はあのとおり男みたいな体つきをした女です。それに早変わりだって、なに、造作《ぞうさ》はありませんや。尾形はいつも男のズボンの上にだぶだぶの仕事着を着ている。そしてベレー帽をかぶっている。だから、男から女に変わる際には、帽子をかえて、洋服の上に仕事着さえ着ればよかったんです。なに、写真だってマグネシウムだって、自動的にやるのはわけありません」  そういわれればまさにそのとおりだった。私にもやはりあの二人が、同じ人間であったように思われる。……だが、……そこで私はふとある事に気がついたので、思わず笑い出した。 「なるほど、きみのいうことはしごくもっともらしい。しかし、ここに一つ大きな弱点があるぜ。それならばなぜ、井原喜多子は尾形と接吻《せつぷん》などしたのだ。しかも男装している尾形を、なぜ怪しもうとはしなかったのだ」  すると河野耕平め、また鼻を鳴らしてせせら笑いやがった。どうも癪《しやく》にさわる奴だ。 「それじゃ私のほうから尋ねますがね。井原喜多子はなぜ、このあいだからあんな、妙な写真なんかとっていたんです」  私は探るように相手の顔を見た。 「きみはそのわけを知っているのか」 「知っていますよ。実は井原から直接聞いたんですよ。ははははは、何も驚くことはありませんよ。一週間ほど前に喜多子の奴が病院へ来たんで、そうそうあの時あなたは留守でしたね。その時私は喜多子をつかまえて、なぜあんなまねをするのか訊《き》いてやったんです。喜多子の奴、変なところを見られていたもんだから、はじめのうちは真っ赤になっていましたが、それでもとうとう白状しましたよ。喜多子は旦那《だんな》の心を取りもどすために、あんな写真をとっていたんです」 「旦那の心を取りもどすため……?」 「そうです、近ごろ旦那は喜多子が鼻について、足が遠くなったんですね。喜多子の奴、それで躍起となって、あらゆる術策を弄《ろう》したがききめがない。そこでああいう写真をとって、旦那に送っていたというんです。つまりおのれの肉体の魅力を、もう一度旦那に思い出させようというわけですな」  ふうむと、私は思わずうなった。私はこの男の機敏さに敬服するよりも、むしろ薄気味悪くなってきた。 「しかし、そのことと昨夜の接吻とどういう関係があるんだい」 「おや、あなたにはまだ想像がつかないんですか。喜多子の奴それほどの術策を弄してもまだききめがない。そこで最後の手段として、ああいう写真をとって旦那に送るつもりだった。……と、これは私の考えですがね。男という者は、自分の捨てた女でも、そいつがほかに男ができたとなると、また惜しくなるものです。つまり旦那の嫉妬《しつと》をあおって、それを機会によりをもどそうというわけですね。しかし、旦那がどなってきたとき、接吻の相手がほんとうの男だとぐあいが悪い。そこで尾形を使ったというわけです。つまり旦那がどなってきたとき、何をおっしゃるのよう。これは女写真師の尾形貞子さんじゃありませんか。嘘《うそ》だと思うなら尾形さんに訊いてごらんなさい。ねえ、ねえ、あなた、わたしがこんなまねをするのも、みんなあなたを愛しているからよ。ねえ、ねえ、あなたってば……ってわけですな。へへへへ」 「だが……だが……それならば尾形はなぜ井原を殺したんだ」 「それは私にもわかりません。しかし、想像できんことはありませんね。尾形はあのように女か男かわからんような人物です。このあいだから喜多子のああいう悩ましい写真をとっているうちに、いつか相手に魅力を感じて、ほかの男に渡すのが惜しくなった。そこでひと思いに殺してしまった。……と、これは私の空想ですがね」     五  昨日いちにち私は煩悶《はんもん》した。河野耕平は別にこちらからこんなこと、訴えて出ることはない。放っておいたらよかろうとうそぶいていた。私のような小心者は、とてもこんな秘密を抱いていることはできなかった。そこで、思いあまったあげくの果てに、私はとうとう夜になっていちぶしじゅうの話を伯父に打ち明けた。伯父がこれを聞いて黙っているはずはない。すぐさま河野を呼び寄せて、もう一度詳しく話を訊いていたが、やがてあわてて警察へ駆けつけていった。  さてそれから、どんなことがあったのか、詳しいことは私も知らぬが、昨夜、裏のアザミ写真館へ警察の者がやってきて、長いことごたごたしていたのはたしかである。ところが今朝になって警察から警部さんがにこにこしながらやってきた。そして私と河野を前において、 「やあ、おかげさんで犯人がわかりましたよ」  と、いかにもうれしそうにそう言った。 「それじゃ尾形は自白したのですか」  河野はそれを聞くと勢いこんでそう尋ねる。 「いや、ところがあの女、何もかも一切知らぬ。一昨日の晩は十一時ごろ寝床へ入って、昨日の朝までぐっすり寝たから、井原に会いもしなければ、スタジオへ入ったおぼえなんか全然ないというんです」 「嘘です、嘘です。ああ、そうだ。警部さん。あなたはあの乾板《かんぱん》を探してごらんになりましたか。それには井原がうつっているはずです」 「そうです、そうです。むろん、私は探しましたよ。ところが幸いなことには、昨日は一人も客がなくて、乾板はまだカメラの中に入っていたんです。で、早速現像焼き付けさせたんですがね。たしかにそこに、井原が男と抱きあっているところがうつっているんですよ。残念ながら男のほうは背を向けているから、全然だれだかわかりませんがねえ」 「そうれ、ごらんなさい」  河野耕平は勝ちほこったように鼻をうごめかして、 「それだけでも、尾形の奴が嘘をついていることがわかるじゃありませんか」 「警部さん、その写真では男がだれだか、ほんとうにわからないんですか」 「わかりません。しかし成瀬さん、その写真には妙なものがうつっているのですよ。ほら、井原喜多子が男と抱きあったとき、右手に白いものを持っていたとあなたは伯父さんにおっしゃったでしょう。その白いものがありあり写真にうつっているのですがね。こればかりは犯人も知らなかったらしい。ほら、これですよ」  警部が取り出した写真というのは、なるほど、このあいだの晩、私が見たとすっかり同じポーズの二人の男女であった。しかし、この写真で見ると、井原と相手の人物は接吻しているわけではなく、井原は男に抱かれて、にっこりこっちを向いて笑っている。ただそれだけのことである。男のほうはまったくだれかわからなかった。ただ、警部も言ったように、男の背中に回した井原の手には一枚の紙きれを握っていて、それをこちらへ向けている。そしてその紙きれには何やら字が書いてあるようであった。警部はにこにこ笑いながら、 「私の考えでは、井原喜多子はこの写真を二枚焼き付けるつもりだったろうと思うんです。そして、その一枚のほうでは、その紙片の部分を切り抜くとか、削るとかして、旦那のところへ送るんですな。そして、旦那がかんかんになっておこってきたら、改めてもう一枚の完全なやつを見せる。と、そういう寸法になっていたんだろうと思う。犯人はしかし、そんなこととは知らずに、抱きあったまま井原の心臓をえぐった。そのとたん井原は紙片を落としたが、犯人はそんなこととは知らないから、別に気にもとめずそのまま放っておいたんですね。昨日の朝、アザミの女中がスタジオを掃除したときも、そんなことがあったとは知らないから、なんの気もなく掃き捨ててしまったらしい。しかし、幸いその紙片は見つかりましたよ。さあ、ここに虫眼鏡があるから、この写真で、紙片に書いてある文句を読んでごらんなさい。これこれ、河野君。どこへ行くんだね。私がせっかくおもしろいものを見せてやろうというのに、逃げちゃだめじゃないか」  警部はそういうと、いきなり河野耕平の手首を握った。私はしかし、なぜ、河野の奴がそんなに蒼《あお》くなっているのか気もつかず、警部の貸してくれた虫眼鏡で、写真にうつっている紙片の文句を読んだが、そのとたん、うしろへひっくりかえるほど驚いたのである。 ———————————————————————————————————————— [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   ——私と接吻のまねをしているこの馬鹿は、S病院の不良青年河野耕平です。 [#ここで字下げ終わり] ————————————————————————————————————————     六  諸君よ。  これで、この物語のはじめに、私の言ったことがおわかりでしょう。四十分間に一つの殺人、いや、二時間に一つの殺人は、いつなんどき、自分たちの身辺で、毒牙《どくが》をといでいるかもしれんのですぞ。  あの時一人二役を演じたのは、女写真師の尾形貞子ではなくて、薬局生の河野耕平だったのだ。つまり女である尾形が男に化《ば》けて、一人二役を演じたのではなくて、男である河野が女に化けて、一人二役を演じたのだ。三階の屋上から、天窓を通してみた私は、尾形の顔を見たわけではなかった。見おぼえのあるベレー帽と仕事着で、尾形とばかり信じていたのだ。  それにしても、のちになって河野の告白したところを聞くと恐ろしい。私と同じように久米仙《くめせん》的芸当をもって、井原喜多子の例の写真一件をぬすみみていた河野の奴は、このあいだ、井原がやってきたとき、なぜあんなまねをするのかと尋ねた。もし、正直にその理由を白状しないならば、あの一件を世間へ吹聴《ふいちよう》するぞと脅《おど》かした。これには井原も仕方なく万事を打ち明けた。旦那の心を取りもどすための、苦肉の計略だと白状した。すると河野はさっそく一計を案じて、それを井原に吹きこんだ。つまり、男と接吻しているところを写真にとって、それで、旦那の嫉妬《しつと》をあおるという計略だ。そして、その接吻男の役を、みずから買って出たわけだ。  だから、このあいだ河野の奴が、尾形にかこつけて私に話したことは、みんなほんとうだったのだ。ただ、自分と尾形を入れかえただけの話だったのだ。  さて、そういう接吻写真をとるように、井原を説き伏せた河野は、あの晩、井原をスタジオに連れこんだが、腹に一|物《もつ》ある彼は、その前に写真館へ忍びこんで、薬局から持ち出した眠り薬で、尾形と女中を眠らせておいたのだ。  井原はしかしそんなことは知らない。河野にそのような恐ろしいたくらみがあろうとは、夢にも知らないから、尾形がいないのなら、私が写真をとってあげると、河野が尾形の仕事着を着、ベレー帽子をかぶっておどけてみせると、冗談だと思って笑ったのだ。あの時井原喜多子がたいそう笑ったのはそのためで、あわれな彼女は、河野のすることを冗談だと思ったのだ。  河野はしかし腹に一物、そうしておどけてみせながら、女を胸に抱き寄せると、ぐさっと一突き。——ところが、そのとき喜多子のほうも腹に一物持っていたのだ。そんな写真をとって、旦那の嫉妬《しつと》をあおるのはよいが、うっかりそのお芝居を、まに受けられてはたまらない。そこでいざとなったときには、それがお芝居であったことを証明できるように、河野に隠して、ああいうプラカードをぶら下げたのだ。これはおそらく刑事もいったとおり、最初、そのプラカードの部分だけ削り取って旦那に送る。そして、旦那がおこってきたら、何をいってらっしゃるのよ。あれはお芝居じゃありませんか。ほら、ここに削りとらない写真があるから、虫眼鏡で、そこのところの文句をよく読んでちょうだい。ね、ね。わかって? だれがあんなにきびだらけの河野なんかと接吻するもんですか。ぶるぶるぶる! 思い出してもぞっとするわよ。ね、ね、こんな想いまでしているのに、あなたったら、……ねえ、ねえ。ねえってば……それで旦那が鼻の下を長くしたら、それでO・K! というわけだったのだ。  つまり狸《たぬき》みたいな河野耕平と、狐《きつね》みたいな井原喜多子の、これは狐と狸のだましあいだったのだ。そしてどっちが勝ったのか。これは諸君の判断におまかせします。  それにしても河野はなぜ井原を殺したのか、そのことはあまり多くいう必要はあるまい。不良青年の河野耕平は、以前から井原喜多子のあとをつけまわしていたが、喜多子はむろん、金も地位もない、そんなにきび青年を相手にするはずがない。そこで、下世話《げせわ》にもいうとおり、かなわぬ恋の意趣《いしゆ》晴らしというわけだが、それをあんな手のこんだやりかたで殺したというのは、私というものを勘定に入れていたからだ。つまり、私というものに、あの場のいきさつを見せることによって、女写真師の尾形に罪をきせようというわけだったのだ。  なんと恐ろしいことではないか。しかも、しかもだ。さらにさらに恐ろしいのは、河野は最後に、こんなことを放言したという。 「うまく尾形の奴に罪をきせたら、こんどは成瀬の奴に、少しずつ毒を盛って、わからぬように殺してやるつもりだった。あいつ、日ごろから癪《しやく》にさわる男だし、いつまたどんな拍子で、おれを怪しいなどと思いはじめるかもしれないからな」  おお、神様、どうぞ私をあわれみたまえ。 角川文庫『刺青された男』昭和52年6月10日初版発行